アフリカ運営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/19 08:10 UTC 版)
「ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョ」の記事における「アフリカ運営」の解説
ブラジルは次第に自立を志すようになり、カルヴァーリョの努力に関わらずブラジルに対する支配力は年々低下していった。当時のポルトガルは保護商品を高値で独占市場に売りつけるという植民地運営を行っていたが、ブラジルが豊かになるにつれて消費者がイギリス製品を選択するようになり、ポルトガルは競争に敗れた売れ残り品を大量に抱えるようになっていた。ポルトガルは他に独占的な市場をつくる必要が生じ、リスボンの商人らはアフリカのアンゴラの市場に目をつける。たちまちアンゴラはポルトガル製品の廃棄場となり、ブラジルでの売れ残りが売りつけられ、代わりに奴隷が輸出されていった。ポルトガルはリスボン商人に有利なようにアンゴラのアフリカ商人に規制を加えたが、アンゴラ北部にイギリス人が港を開くと、アフリカ商人たちはポルトガルの規制を嫌い、以後奴隷の供給はイギリスに向けられた。
※この「アフリカ運営」の解説は、「ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョ」の解説の一部です。
「アフリカ運営」を含む「ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョ」の記事については、「ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョ」の概要を参照ください。
- アフリカ運営のページへのリンク