アウンサンスーチーの政治思想
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アウンサンスーチーの政治思想(アウンサンスーチーのせいじしそう)について詳述する。
アウンサンスーチーの政治活動の目的はミャンマー軍(以下、国軍)から政治権力を取り戻すこと一点に絞られており、その思想も国軍との闘争に大きく影響され、変遷している。当初は父親のアウンサンの民主主義の遺産(とされるもの)を継承し、マハトマ・ガンディーに倣った非暴力不服従的手段によって、ミャンマーに民主主義と人権を取り戻すというものだったが、1990年代半ば以降は大きく仏教に傾倒していった。しかし、民主主義導入の必要性、個人こそ変革の主体という信念、教育の必要性、団結・責任・規律の重要性、そして政治全般に対する道徳的アプローチは終始一貫していた。統治者だけではなく、国民にも高い道徳的義務(精神の革命、教育、団結・責任・規律)を課したところが、最大の特徴である[1]。
仏教のほかには、父親のアウンサン、マハトマ・ガンディー、マーティン・ルーサー・キング、ネルソン・マンデラ、ヴァーツラフ・ハヴェルなどの影響を受けている。
ポーランド人のミャンマー学者・ミハウ・ルビナは、スーチーの論法の特徴について、(1)自分の意見をミャンマー国民の意見として提示する、(2)仏教の遺産を理想化したビジョンを提示すると述べている[2]。また、都合の悪い質問を頻繁に省略・回避したり(「この問題は徹底的に調査する必要がある3」「健全な判断を下すためには、問題の背景を調査する必要がある」「信頼できるデータを収集する必要がある」等)、ポピュリズム的発言をしたり(「私たちは金持ちを貧しくするのではなく、貧乏人を豊かにする」)、アウンサンを利用して自らを正当化したり、教師のような態度を取ったり(「意味のない質問をしないでください」「若者は野心や信念を持つことが重要だ」)、母親のような態度で接したり(「子どものための問題と大人のための問題があります」「自分を信じなさい」)、説教臭かったり(「お酒を飲まないでください。ストレスがたまります」)、警告を発したり(「ギャンブルは公共の道徳を損なう可能性がある」「喫煙は非常に危険である」)する傾向があった[3]。
政治への関心

スーチーは、子供の頃から母親のキンチーに「あなたは国民に対して義務を負っている」と教えられ、育てられた[4]。また、駐印大使だったキンチーに付き添って公式・非公式さまざまな会合に出席し、デリー大学・スリラム・カレッジとオックスフォード大学セント・ヒューズ・カレッジ哲学政治経済学部(PPE)では政治学を専攻した。ただし、学生時代に政治活動をした形跡はなく、国連勤務時代にも政治に関与した形跡はない。ただ、マイケル・アリスと結婚する前に、以下のような内容の手紙を送っており、政治にまったく関心がなかったというわけではないようである[5]。
私がお願いしたいのはただ1つ、国民が私を必要とするとき、私が国民のために義務を果たせるよう、あなたが助けてくれることです。そのような状況が起こったら、あなたは気にかけてくれますか?それがどれほどの可能性で起こり得るかはわかりませんが、私たちがお互いにとても幸せで、別れが苦痛であるときに、状況が私たちを引き裂くかもしれないという恐怖に時々悩まされます。しかし、そのような恐れはあまりにも無益で取るに足らないものです。私たちができる限りお互いを愛し、大切にすれば、愛と思いやりが最後には勝利するはずです。 — アウンサンスーチー
また、1974年にウ・タント葬儀弾圧事件が起きた際、政府関係者がスーチーに「反政府運動に参加するつもりか?」と尋ねたところ、スーチーは「私は外国で行動することは絶対にしません。もし政治活動に参加するのなら国内でします」と答えたのだという[6]。しかし、1985年~1986年の京都大学留学時、父アウンサンの軌跡を追い、また、そこで出会ったミャンマー人留学生が父アウンサンを非常に尊敬しており、自分も「アウンサンの娘」として扱われたことによって、祖国に対する義務感が再び芽生えたとも伝えられる[7]。そして、ミャンマーの経済危機が深まった1987年、のちにNLD副議長となるチーマウンは、人づてにスーチーから「政治に関与したい」と相談を持ちかけられたが、チーマウンは「内気で口の重い娘...礼儀正しい女の子...まったく笑わないので不思議な気がした...全然ピンと来なかった...たしか42歳のはずだったが、17歳の娘に見えた」だけで、あまり感銘を受けなかったのだという[6][8]。
翌1988年、8888民主化運動が始まっても、しばらくスーチーは静観していたが、ジャーナリストのウィンティン、映画監督のモートゥー、そして元海軍中尉で作家のマウンタウカの3人が、スーチーの自宅を訪れ、民主化運動に加わるよう説得。当初、スーチーは首を縦に振らなかったが、7月23日、ネ・ウィンがビルマ社会主義計画党(BSPP)議長を辞任すると、スーチーは衝撃を受け、民主化運動に加わる決心をしたと、のちに夫のアリスは回想している。そして、件の3人が3回目の訪問をした際、スーチーは民主化運動に加わることに同意した[9][5]。この際、マウンタウカは、インヤー湖のほとりにあるホワイト・ブリッジやスーレーパゴダなど、抗議運動に加わった学生たちが殺された場所を、スーチーに案内して回ったのだという[10]。
後年、スーチーは以下のように述べている[11]。
私はずっと政治家でした。人権擁護活動家や人道支援活動家としてではなく、政党のリーダーとして政治の世界に入ったのです。もしそれが政治家でないなら、何が政治家なのかわかりません。 — アウンサンスーチー
アウンサンの後継者として

スーチーが最大の影響を受けた人物は、もちろん、父親のアウンサンである。母親のキンチーは常にアウンサンが奉じた価値観を称賛し、尊敬するようにスーチーに教えた[12]。その後、スーチーは、1985年10月~翌年7月までの約9か月間、京都大学東南アジア研究センターの客員研究員として来日し、アウンサンについての歴史研究を進め、「私の父、アウンサン」「『ボ』のほんとうの意味」という論稿を著している[13]。そして、8888民主化運動の最中、8月26日にシュエダゴン・パゴダで行った演説によって、スーチーは父親の後継者として、政界デビューを果たした[14]。その後もスーチーは演説・評論の中でたびたびアウンサンに触れたが、そのアウンサンは「正義と民主主義の原則を信じていた」民主主義の信奉者たるアウンサンであり、[15]「人生を『真実と完全を求める巡礼の旅』と見ていた」敬虔な仏教徒たるアウンサンだった[16]。
しかし、これは、スーチーによるはなはだしい理想化だった。実際のアウンサンは、独立と国家統一のためなら手段を選ばないマキャベリストで、その短い政治人生の中で、共産主義者から社会主義者、そしてファシスト、反ファシストと目まぐるしく政治的立場を変えていた。日本統治下の1941年頃にアウンサンが執筆したとされる「ビルマのための青写真」では、独立後のミャンマーが採用する政治体制として、立憲君主制[注釈 1]と議会制民主制[注釈 2]を否定し、軍事ファシスト国家を選択している[注釈 3][17]。また、仏教に関しても、アウンサンは「宗教は個人の良心の問題であり、政治は社会科学である」政治と宗教を明確に区別しており、仏教を政治利用することはなかった[18]。さらに、アウンサンは、1942年初頭、下ビルマのムスリムの村長を自ら殺害している[注釈 4][19]。
しかし、スーチーはこれらの事実には目を瞑り、アウンサンの神格化とその後継者としての地位の確保に成功した[20]。
ビルマの人々が私を信頼しているなんといっても第一の理由は、父に対して抱いている彼らの愛です。父の彼らに対する善意を、彼らは少しも疑いませんでした。父は自分を犠牲にする覚悟のあることを、その生き方によって証明しました。そのために人々は彼を愛しました。その愛の大部分が私に移されたのだと思います。それで私は有利な地点から出発することができました。すでに積み立てられているメッターの蓄えです。これを基礎にすることができました。私が父の娘であることと、人々と私とのあいだに固い絆がある事実を切り離すことはできません。 — アウンサンスーチー
政治思想
道徳的民主主義
スーチーの政治思想の根幹をなすのは、ミャンマーにおける民主主義の実現である。しかし、標榜する民主主義の内容について問われると、スーチーの答えは「より憐れみ深い顔を持った民主主義」「より人に優しい民主主義」など常に曖昧模糊としたものだった[21][22]。この点、ミハウ・ルビナは、スーチーが民主主義に固執した理由を「すべての選挙で勝利できることを知っていたから」と極めて実利的な解釈をしたうえで、その標榜する民主主義の最大の特徴を「統治者にも国民にも高い道徳性を求める『道徳的民主主義』」と定義づけ、スーチーの以下の発言がその特徴をもっともよく表していると述べる[注釈 5][23][24]。
まず、第一に、私たちが欲しいものはビジョンです。なぜ政治制度が私たちのふだんの暮らしと結びついているのか、人々に見て理解してもらいたいと思います。どうして政治を無視して経済だけに集中するわけにはいかないのかを。当局は私たちにそうさせようとしていますが。私たちの民主主義をめざす戦いは、私たちの日常生活のための戦いで、両者は分けられないことを人々にわかってもらいたいのです。それは、少しばかり自由な時間がある時や、それをしたいと感じる時だけするようなものではありません。それは絶えず行っていなければなりません。 なぜなら、それは絶えずその人の生活に影響するからです。ある国の政治制度を、私たちの日々の暮らし方から切り離すことはできません。これが基本的に私たわが求めている精神です。つまり、私たちが求めて戦っているものは、はるかかなたにある目標や理想ではないという意識です。私たちが求めて戦っているものは、日常生活のなかの変化です。私たちは恐れや久乏からの自由を求めています。今日、物質的に保障された生活を享受している人々もいます。しかし、このような生活がいつ彼らから取り上げられるのか、彼らにはわからないのです。他の人々に害を及ぼさない限り、また、お互いに害を及ぼしあうことのないよう制定された法律を犯さない限り、私たち自身が害を受けることはない。そのことを知っていて安心していられる、そんな安心感がなければなりません。私たちは何もしていないのに、当局が私たちの仕事を奪ったり、私たちを家から追い出したり、投獄したり、処刑したりすることはないという安心感です。 — アウンサンスーチー
また、ミハウ・ルビナは、「道徳的民主主義」以外の9つの特徴に言及し、その共通点を「個人重視」と分析している(後述)[25]。
- 機会均等重視:「公平な競争の場において初めて、実力主義は人が自分の望むように人生の道を切り開くことを可能にする...自己啓発能力に優れた人々は、恵まれない市民を自分の兄弟のように支援すべきだ」[25]
- 権力に対する監視:「野党や報道機関が権力を監視すべき」「私たちには優れた反対者が必要です。なぜなら、彼らは私たちの間違いを指摘し、私たちが自己満足に陥ることを防いでくれるからです[26]」ーこれは、伝統的に「統治者は高い道徳性を備えている」と見なされ、いかなる法的拘制約を受けたなかったミャンマーでは画期的な主張だった[25]。
- 個人よりシステム優先:「システムのほうが重要だ...民主主義とは、人間の道徳的堕落傾向を抑制するために設計された政治システムだ[25]」
- 政党重視:「政党が1つしかない国は民主主義とは言えない[25]」
- 人権重視:「政治と人権の間に区別はない。真の政治...に取り組むのであれば、人権にも取り組むことになる。『私たちは人権問題には取り組んでいない。国民に奉仕するだけだ』というのは意味をなさない[25]」
- 法の支配重視:「法律が国民を公正に扱う限りにおいて、国民は法律を遵守する[25]」
- 少数派の役割重視:「世界中で民主主義への移行が起こったのは、常に少数派が法の支配、平等、平和を求める闘いにおいて多数派を鼓舞することに成功したときだった[25]」
- 民衆重視:民衆(The people) という言葉を多用した(「私たちは民衆の声に耳を傾ける必要がある」」「民主主義運動の最大の力は民衆だ」[25])。「SLORC/SPDCも民衆に含まれる」とさえ述べている[27]。
- 小さな政府志向:「最良の国家とは、国民が全く感じない国家である...政府が効率的、適切、そして控えめに職務を遂行すれば、国民は自分たちを操り、支配している国家の存在を感じないため、ストレスなく国民の幸福が達成される[25]」
思想の中核としての仏教
民主主義の内容が以上のようなものとして、SLORC/SPDCからは「民主主義や人権は非ビルマ的・非仏教的」と絶えず批判された。この点に関してスーチーは、まず「民主主義や人権は普遍的な価値」と反論した。そして、8888民主化運動の際に国民が見せた自由な議論や情報に対する熱意、代表民主制、人権、法の支配に対する理解、民主主義の理念を学ぶ知性を根拠として、「ミャンマー人は民主主義に不向き」というのは誤りだと主張した[注釈 6]。さらにスーチーは民主主義や人権の根拠を仏教に求めた[注釈 7][28]。
仏教への傾倒
もともと母親のキンチーから仏教徒としての厳格な教育を受けたスーチーだったが、初期の著書・『ビルマとインド: 植民地主義下の知的生活のいくつかの様相』[注釈 8]では、「ミャンマーの発展が遅れたのは、仏教を含む伝統文化に固執して、優れた西洋文化を取り入れなかったから」と述べ、仏教に批判的だった[29]。
伝統的なビルマの教育は、思考面には力をいれなかった。これは主に仏教の表す哲学は完成されたものだという考えによるものだが、それがビルマ人特有の精神構造からきているらしいということは広く認められていることだった。だから、それをさらに発展させる必要もないし、他の哲学を考える必要もなかったということになる…インドでは、ビルマにおける仏教とは異なり、ごく少数のイスラム教に加え、ヒンドゥー教の存在が、かなり多様な状況を作り出していた…(インドで)ベンガル・ルネサンス的な考えをする人たちが、知的で哲学的な言葉を使うイギリスの支配に立ち向かうことができたのは、この融通性を受け継いでいたことがその一因であった。 — アウンサンスーチー
また、その仏教理解も怪しかった。1989年12月3日の建国記念日の祝賀行事の際、「ブッダとは誰ですか?」と尋ねられると、「私たちと同じ普通の人です。だから私たちもブッダになれるのです」と答え、SLORC/SPDCからブッダを冒涜するものと批判された。冒涜かどうかはともかく、仏教の一般解釈[注釈 9]にも反していた。それでもSLORC/SPDCから、外国暮らしが長く、外国人と結婚している点を激しく攻撃されたことにより、仏教徒が大多数を占める国民の支持を得るため、スーチーは、1988年から1989年の選挙運動中、遊説の先々で高僧に敬意を表して祝福を受け、説法に耳を傾け、支持者とともに五戒を修行し、時には僧院の建設作業を手伝い、演説を「危険から逃れ、心身ともに幸せでありますように」などと仏教的な言葉で締めくくった[30]。
そして、1989年7月20日~1995年7月10日の最初の自宅軟禁中に読書と瞑想に耽ったことにより、解放後はさらに仏教色を強め、演説には以前にも増して仏教用語や僧侶の言葉を多数引用し、仏教倫理を説くようになった[31][32][注釈 10]。スーチーの意図は、仏教の道徳面を強調してSLORC/SPDCの非道徳的面を炙り出し、自分と国民民主連盟(NLD)が「王の十の義務[注釈 11][33][34]」を果たすこと、五悪論に君主を含めること[注釈 12][35]、非暴力不服従[注釈 13][36][37]を貫くことなどにより、SLORC/SPDCに対する道徳的優位性を主張し、自分たちこそ国家の指導者に相応しいと国内外に知らしめることだった。その際、スーチーは「メッタ(慈悲、ビルマ語: မေတ္တာ)と」いう概念を多用した[38]。スーチーおよびNLDの「メッタの力によってSLORC/SPDCに権力を放棄させる」という戦略は、セッヤ・ジャータカおよびエカラージャ・ジャータカという仏教の前世物語(ジャータカ)に依るものであった[注釈 14][39][40]。また、スーチーは「敬虔な仏教徒たるアウンサン」や、仏教王として知られるアショーカ王についても頻繁に言及したが、前者については前述したとおり不都合な事実には触れず、アショーカ王についても、カリンガ戦争の際に10万人もの人々を殺害した事実には触れなかった[41]。
いずれにしろ、この戦略は功を奏し、国軍が「悪の枢軸」とされる一方、スーチーは国内外で大変な人気を博し、「女性の仏陀」と呼ばれるほど神格化されるようになった[42]。
仏教の民主主義的要素
スーチーは、以下のように、時に、仏教の中に実際以上の民主主義的要素を見出した[43]。
- 有名なエッセイ『民主主義を求めて[注釈 15]』の中で、「仏教徒の世界観では、社会が本来の純粋性を失って混乱し道徳が低下すると、平和と正義を回復させるために、(マハーサンマタという世界最初の)王が選ばれ」「マハーサンマタは人々の合意によって選ばれ、正しい法に従って治めることを求められているのだから、選挙によって選ばれる政府は、ビルマの伝統思想と相いれないはずはない」と主張した[44]。
- マハーサンマタには前述した「王の十の義務」が課せられているが、スーチーは、主語を「ビルマの人々」として、自分の意見にすぎないものをミャンマー人全体の意見の意見と書き換えたうえで、統治者にそのような高い道徳性を求めていることこそが、人々が民主的な政府を望んでいる証拠と主張した[45]。また、「王の十の義務」の最後の10番目の義務である「アヴィローダ(人民の意思に逆らわない)」に民主的要素を見出し、「王が人民の意思に逆らった場合には人民は従う必要がない」とも主張している[46]。
ピルマの人々は、王の十の義務を引き合いに出して、ただ、自分たちに望ましい思想にひたっているのではありません。自分たちが必要だと考える政治形態が、どの時代にも通用する価値観に裏づけられていることを主張しているのです。民主主義にふさわしいのは、民意に対する責任と正しい法を至上のものとする政治であって、国民の意志を尊重することもなく、仏教で王の義務とされることも行わないような絶対権力をもつ支配者や支配階級が治めることではありません。伝統的な価値を引き合いに出すことで、人々は民主的な政府を待ち望んでいることを正当化し、わかりやすく説明しているのです。 — アウンサンスーチー
- 「道徳性の高い者が統治者になれば、国家は繁栄する」と主張した[47]。
しかし、ミハウ・ルビナは、スーチーのこの解釈を「無理があり」「極端に走りすぎている」と評している[2]。
- 「マハーサンマタは人々の合意によって選ばれた」という主張:この「合意」は現代的な選挙と異なり、階層的な社会構造の中で、有力者たちの間でなされたものである可能性が高い。
- 「統治者に高い道徳性を求めていることこそが、人々が民主的な政府を望んでいる証拠」という主張:これは「『統治者は高い道徳性を備えている』と見なされていた」と言うべきであり、人々が「統治者に高い道徳性を求めていた」わけではない。また、仏教では、最高の道徳を備えた王が誤るということはありえず、ゆえに人民の反乱(人民は従う必要がない)には正当性がなく、せいぜい社会が衰退するだけだと考えられている[48]。
- 「道徳性が高い者が統治者になれば、国家は繁栄する」という主張:この主張は、チャッカヴァッティ・スッタに依るものとされているが、通常、チャッカヴァッティ・スッタの解釈は「人々の道徳性が高い時に、道徳性が高い統治者が現れる」というもので、順序が逆である。そして、通常、チャッカヴァッティ・スッタは「政治は人間生活の障害でも救済でもなく、せいぜい補助的役割を担うにすぎない」とも解釈されている[49]。
「涅槃に至る能力」としての人権
一方、人権の仏教化には苦労した。欧米では、「人権はもともと個人が有するもので、国家権力はこれを侵してはならず、むしろ守らなければならない」と考えるのに対し、ミャンマー語で人権を表す「ルー・アクィン・アイェー(ビルマ語: လူအခွင်းအရေး)」という言葉の「アクィン(ビルマ語: အခွင်း)」には「許可」「権利」の両方の意味があり、「人間の許可または権利の問題」と訳せるところ、これでは「国家権力が個人に与えるもの、または個人が国家権力に許可を求めるもの」という意味になり、個人尊重の観点からは不都合だった。また、人権は「人間という特別な存在が持つ権利」であるのに対し、仏教は「すべての生命は平等」で、「不完全な人間が輪廻転生を繰り返して解脱する道」を説くもので、解脱すれば法律や人権など外部からの強制は一切不要となるため、「人権は非仏教的」という批判に反駁することは難しかった[50]。しかし、ここでもスーチーは、人権を「人間の涅槃に至る能力」と再定義することにより、これらの不都合・批判を巧みに回避し、人権概念をミャンマーに定着させることに成功した[50]。
精神の革命
「個人の精神力」に対する信念
さらに、スーチーが独特であったのは、国家が繁栄するためには、統治者だけではなく、国民もまた道徳的でなければならないと主張した点である。ミハウ・ルビナは、これを「伝統的なパラダイムでは前代未聞であり、考えられない提案」と評している[51]。
例えば、スーチーは、1989年4月27日にカチン州ミッチーナーで行った演説で、以下のように述べている[52]。
「それでは、なぜビルマ社会主義計画党(BSPP)がそんなに長く、存続することができたのだろうか?」ーこの間いに対する答えは、ほとんどの人々に関係があると思います。なぜならわたしたち国民が、ただ何もせずに傍観していたために、この機構がこんなに長続きしてしまったからです 独立のとき、国民が国民としての義務を遂行しなかったために、BSPPは政府の統制権を掌握したのだと思います。私たちが将来しっかりした民主政治を願うならば、私たち一人ひとりが良心をもって責任を負わなくてはなりません。 — アウンサンスーチー
前述したように、ミャンマーの政治は、統治者の能力ではなく、仏教倫理に従った善行が主な基準とみなされるという点で、非常に「道徳的」だが[23]、このような背景が、悲観的な宿命論と楽観的な宿命論という2つの宿命論を生み出している。前者は人間の「貪欲かつ堕落した」性質を強調して、人間は「自らの行動を制御できず、必然的に互いを傷つけ合い、暴力の永続的な連鎖を生み出し、争いに満ちた人生を運命づけられている」ので、これを制御するために、強力な政治権力が必要と主張する。後者は、たとえ人間の本質がそのようなものでも、個人の精神力で克服可能で、涅槃に至ることができるというものである。スーチーは後者の立場に立ち、ゆえに個人の精神力を非常に重視していた[53]。
恐怖からの自由
人を堕落させるのは権力ではなく、恐怖です。権力を失う恐怖が、権力を行使する者を堕落させ、権力の鞭の恐怖が、権力に支配される物を堕落させるのです。 — アウンサンスーチー
そのスーチーの個人の精神力に対する信念を端的に表しているのが、『自由 自ら綴った祖国愛の記録』の原著のタイトルでもある「恐怖からの自由」である。これは、フランクリン・ルーズベルト米大統領が1941年1月6日の一般教書演説で表明した「4つの自由」が元ネタだが、スーチーは他の3つは無視して「恐怖からの自由」だけを採用し、これを「バヤガティ(恐怖による堕落)」という仏教概念と結びつけた。そして、人々に勇気をもってこの恐怖を克服すべしと繰り返し説き、これを「精神の革命」と呼んだ[注釈 16][54]。
真の革命とは精神の革命です。それは、国の発展の方向を定めるには人間の精神や価値観を変革しなければならないことを、人々が知性によって確信することから生まれます。豊かさだけを目標に、ただ施策や制度を変えることを目指す革命では、真の成功は期待できません。精神の革命のないところでは、古い秩序の悪を生み出した権力が生きのびて、改革と再生の過知に絶え間ない脅威を与えることになります。自由、民主主義、人権を求めるだけでは充分ではありません。永遠の真実に誓って犠牲を払い、欲望、敵意、無知、恐怖による堕落に抵抗するために、戦いを貫く一致した強い決意が必要です。 — アウンサンスーチー
この「恐怖からの自由」はスーチーの代名詞のようになり、単なるSLORC/SPDCとの権力闘争にすぎなかったものを、より高次元な道徳的価値を体現していると国内外に知らしめることに成功。仏教の「政治利用」と相まり、スーチー神格化の一因となった[注釈 17][55][56]。
教育の重要性
NLD政権発足時、教育大臣を兼任したことからもわかるとおり、スーチーは教育への関心が高く、「この国の教育制度では、三輪バイクを漕げるだけの凡庸な卒業生しか輩出できない」「国の国際水準はホテルや橋の数で測るのではなく、教育で測るべきだ」「良い教育制度がなければ、経済を向上させることはできない」と演説・論考の中でも頻繁に言及している。しかもその教育観は、実利教育よりも精神教育を重視で、それは「教育の目的は、人生に立ち向かうための準備を整えることだ」「教育とは、書物から学べる教育ではなく、人生から学べる教育だ」「私たちは貧困と富の両方の重荷に耐えるために、教育と知恵を求めなければならない。知恵を求め、知恵を知り、知恵を持つ人は、富裕であろうと貧富であろうと、自分の行動の結果を理解しているため、いかなる悪事も犯さない」といった言葉にも表れている。そして、スーチーは、教育を受けた人は、自立した個人となり、高い政治意識を持ち、必ず民主主義を選択するだろうと考えていた。スーチーにとって、いわば教育は、民主主義を実現するための前提条件を築くものだった[57]。
団結・責任・規律
僧職者ならびに国民のみなさん。この国民集会は、全世界にわたしたち国民の意思を表明するために開催されるものです。したがって、ビルマ国民は規律正しく、統一のとれた国民であるという事実を、世界に知ってもらうために、この集会では、みなさんに規律正しく、一致団結した行動を取っていただきたいのです。わたしたちの目的は、全国民が複数政党の民主主義による政府を待望しているということを、知ってもらうことです。 — アウンサンスーチー(シュエダゴン・パゴダ演説第一声)
スーチーは演説・論稿の中で「団結・責任・規律」の重要性を繰り返し説いている。政界デビューを果たしたシュエダゴン・パゴダの演説でもこの3つの言葉に頻繁に言及し、「団結」にいたっては19回も使用されている。これは、個人レベルで精神の革命を起こし、教育を受けて民主主義に目覚めても、「団結・責任・規律」がなければ、民主主義は実現しないというスーチーの信念を表すものだった[58]。 繰り返しになるが、統治者だけではなく、国民に「責任」を求めたところが、欧米の民主主義理解と一線を画す点だったが、ややもすれば「人々に多くのことを要求しすぎ」「他人任せ」という批判を招くものであった[59][60]。
私たちすべては民主的な政府、民主的な統治制度を創りだすために努力しなければなりません。これは私たちすべての責任です。一人一人に責任があります。すべての人々が、協力して努力していかなければなりません...攻撃が強まれば強まるほど、私たちは、ますます粘り強さを持たなければなりません。さらにいっそう男気を持たなければなりません。 — アウンサンスーチー
「道徳的民主主義」は実現したのか?
国軍との妥協
2010年11月13日、およそ7年半ぶり3度目の自宅軟禁から解放された後、スーチーは国軍との妥協策を探った。ミャンマーに変革をもたらすためには、大統領にならなければならず、そのためには国軍やテインセイン政権との協力は不可欠だった。国軍批判を控え、それどころか国軍の取り巻き政商から寄付金を受け取り、国際会議の場では「民主的体制が実現するまでは投資を控えるべき」という前言を翻して、世界各国・多国籍企業にミャンマーへの投資を呼びかけ、2013年3月27日の国軍記念日のパレードにも参加した[61][62][63]。スーチーは前言との整合性を取るために「国民的和解」の言葉を何度も繰り返した[64]。
へし折られた希望
2016年にNLD政権が成立し、スーチーが国家顧問に就任した後は、ますます前言との矛盾が露わになり、スーチーとNLDに対する失望が深まった。スーチーは国民の前で話すことはなく、インタビューも受けず、公式の場以外にはほとんど姿を現さなかった。いくつも役職を兼任し、細かい点にまで口を出し、行政の不効率と反感を招いた。そして、他人の助言にはほとんど耳を貸さず、その政治手法はエリート主義的・権威主義的とも称された[65]。
また、少数民族問題を解決すべく連邦和平会議 - 21世紀パンロンを主催したが、成果を上げられず、経済は停滞し、言論・報道の自由は後退、高まる反ムスリム感情に対処できず、2017年にはロヒンギャ危機を招き、スーチーの国際的名声は失墜した。アンドリュー・セルシュは「アウンサンスーチーがこれほど急速に失脚すると予想した人はほとんどいなかった」と述べている[66][65]。そして、2021年2月1日、国軍はクーデターを決行し、スーチーは身柄を拘束され、失脚した。
スーチーは、1996年2月10日の演説で、以下のように述べていた[67]。
有能な人物について語るとき、それは常に有能であるという意味ではありません。人物の能力は、与えられた状況においてどれだけ有能であるかによって判断されます。優れた革命家は必ずしも優れた政治家であるとは限らないと言う人もいます。革命期には効果的で効率的な急進派であったとしても、国家建設においてはそれほど効果的でも効率的でもないかもしれません。状況に応じて行動を調整できることが重要です。 — アウンサンスーチー
脚注
注釈
- ^ 「ビルマ人の気質は常に強力で有能な指導者を必要とし、単なる象徴的な指導者は望まない」と述べている。
- ^ 「議会政治は個人主義の精神を助長し、それによって個人主義的な混乱者や妨害者に行政の進行を妨害したり遅らせたりする機会を与えるため問題外」と述べている。
- ^ 「私たちが望むのは、ドイツやイタリアに代表されるような強力な国家統治である。国民は1つ、国家は1つ、政党は1つ、指導者は1人のみである。議会による反対勢力は存在せず、個人主義のナンセンスもあってはならない。すべての人は、個人よりも優位な国家に従わなければならない...行政、司法、財政において、法の支配よりも権威の支配が優先されるべきである。」
- ^ 村長の未亡人によると、アウンサンは村長を故意に辱めた後、公衆の面前で銃剣で殺害した。アウンサンは殺害を否定しなかったが、刀で切りつけたものの最後までやり遂げることができず、部下の一人が仕留めたと述べた。アウンサンは自分がこの命令を下したことは否定せず、のちに状況を説明した際には、「時勢に即した、必要な大雑把な正義」だったと述べた。しかし、「良心は清浄だと主張したが、この発言をする際には、『忘れた、忘れた…』と呟き、道を見失ったように見えたのだという。
- ^ これは、能力ではなく、仏教倫理に依った善行こそが適切な指導者を選ぶための基準と考える、ウー・ヌ以下のミャンマーの伝統に沿ったものだった。
- ^ しかし、これはあまりにも理想化されたもので、実際は、8888民主化運動は経済的困窮を理由にBSPP政権を打倒し、国軍の将校たちの責任を追求し、ミャンマーの国際的地位と経済的地位の回復を図った運動で、国民の民主主義に対する理解も「民主主義になれば車を買える」程度のものだった。それは、ミャンマー語に「民主主義」に当たる言葉がなく、「ディー・モー・カイェー・シー(ビルマ語: ဒီမိုကရေစီ)」という英語由来の言葉が使われたことからも明らかである。
- ^ しかし、民主主義や人権が普遍的価値であるならば、わざわざ仏教に結びつけ、ミャンマー土着のものと主張する必要はないはずで、やや言動に矛盾がある。
- ^ 『自由 自ら綴った祖国愛の記録』に「植民地統治下のビルマとインドの知的活動」というタイトルで収録。英語タイトルは「 Burma and India Some Aspects of Intellectual Life under Colonialism」。
- ^ ブッダは菩薩としての三十波羅蜜を通して人間の地位から解放されており、「普通の人」ではない。また、ブッダになる前は菩薩であり、やはり「普通の人」ではない。
- ^ バーティル・リントナーは、「1988年以前は『ビルマの未完の復興』について書いていたのに、現在では『ビルマの政治体制の未成熟さや、ビルマの社会・知的構造の欠陥や弱点については一切言及せず』、むしろ『民主主義のための闘いにおいて、古代仏教の概念と実践、すなわちビャマ・ソー・タヤ、メッタ、カルマ、パラミ、サティ、ヴィパッサナー、ニルヴァーナを用い始めた』」と述べ、この変化を一種の「転向」と評している。しかし、ミハウ・ルビナは、「仏教はスーチーの政治思想に常に存在し...1988年から1989年にかけての彼女の思想と1990年代半ばの思想の間に明確な線を引くのは無理がある」と反論している。
- ^ マハーハンサ・ジャータカやダサヴィダ・ラージャダンマに記されている。スーチーはこれを、ダーナ(寛容)、シーラ(公徳心)、パリッチャーガ(自己犠牲)、アッジャヴァ(高潔)、マッダヴァ(思いやり)、タパ(厳格)、 アコーダ(怒らない)、アヴィヒムサー(非暴力)、カンティ(寛容)、アヴィローダ(人民の意思に反さない)と解した。
- ^ 通常、水、火、盗人、病気、軽蔑する相手(通常は親族)と解されていが、スーチーはこれを水、火、君主、泥棒、仇敵と解釈し、現代政治と結びつけた。即ち、飲料水の不足、停電、軍政、賄賂・寄付を強要する者。そして仇敵には(自分が軍政に対してしているように)メッタをもって和解すべきと説いた。
- ^ マハトマ・ガンディー、マーティン・ルーサー・キングなどの影響。また、仮に暴力を行使して民主主義を実現しても、代わりの暴力を招くだけで暴力の悪循環から抜けられないという信念もあった。ただし、スーチーが非暴力不服従を闘争方針として採用したのは「一部の人が信じているような道徳的な理由ではなく、実践的、政治的理由からだった」と明言しており、一定の範囲内での軍事力の行使も認めていた。
- ^ 2つのジャータカは同じもので、セッヤ:ジャータカの内容は「菩薩であるバラナシ王の元顧問が王を裏切り、コーサラ王に『バラナシ王は弱く征服しやすい』と唆す。コーサラ王は3度にわたるテストでバラナシ王の正義と慈悲を確認した後、バラナシを侵略。バラナシの人々は抵抗を望んだが、バラナシ王は非暴力の姿勢を貫き、城門を開け、抵抗せずに捕らえられる。しかし、コーサラ王はバラナシ王の慈悲深さに触れ、激しい苦痛を感じる。そして、その苦しみが自らの過ちによるものだと悟ると、彼はバラナシ王に許しを請い、バラナシを返還する。裏切りの者の元顧問は罰せられ、平和が回復する」というものである。
- ^ 『自由 自ら綴った祖国愛の記録』収録。
- ^ ただし、恐怖を克服する具体的な方法については、わからないと素直に認めた。
- ^ ただし、仏教においては「恐れを知らないこと」とは「悪行への恐れの欠如」を意味し、必ずしても肯定的な意味合いではないと批判されている。
出典
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参考文献
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関連項目
- アウンサンスーチーの政治思想のページへのリンク