アウンサンスーチーのシュエダゴン・パゴダ演説
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アウンサンスーチーのシュエダゴン・パゴダ演説(アウンサンスーチーのシュエダゴン・パゴダえんぜつ)。1988年8月26日、アウンサンスーチーがシュエダゴン・パゴダで行った演説について詳述する。
アウンサンスーチーと政治
アウンサンスーチーがミャンマーの政治、および国際舞台に登場したのは、8888民主化運動の最中の1988年8月26日、シュエダゴンパゴダで50万人とも言われる聴衆の前で演説した時である。それまでスーチーが政治に興味あったか否かについては諸説あるが、スーチーは、子供の頃から母親のキンチーに「あなたは国民に対して義務を負っている」と教えられ、育てられた[1]。また、駐印大使だったキンチーに付き添って公式・非公式さまざまな会合に出席した経験があり、デリー大学・スリラム・カレッジとオックスフォード大学セント・ヒューズ・カレッジ哲学政治経済学部(PPE)では政治学を学んでだる。ただし、学生時代に政治活動をした形跡はなく、国連勤務時代にも政治に関与した形跡はない[2]。
ただ、マイケル・アリスと結婚する前に、以下のような内容の手紙を送っており、政治にまったく関心がなかったというわけではないようである[2]。
私がお願いしたいのはただ1つ、国民が私を必要とするとき、私が国民のために義務を果たせるよう、あなたが助けてくれることです。そのような状況が起こったら、あなたは気にかけてくれますか?それがどれほどの可能性で起こり得るかはわかりませんが、私たちがお互いにとても幸せで、別れが苦痛であるときに、状況が私たちを引き裂くかもしれないという恐怖に時々悩まされます。しかし、そのような恐れはあまりにも無益で取るに足らないものです。私たちができる限りお互いを愛し、大切にすれば、愛と思いやりが最後には勝利するはずです。 — アウンサンスーチー
また、1974年にウ・タント葬儀弾圧事件が起きた際、政府関係者がスーチーに「反政府運動に参加するつもりか?」と尋ねたところ、スーチーは「私は外国で行動することは絶対にしません。もし政治活動に参加するのなら国内でします」と答えたのだという[3]。さらに、ミャンマーの経済危機が深まった1987年、のちにNLD副議長となるチーマウンは、人づてにスーチーから「政治に関与したい」と相談を持ちかけられたと述べている[4]。
翌1988年、8888民主化運動が始まっても、しばらくスーチーは静観していた。のちに「デモは好きではない」と述べている。オンミン(Ohn Myint)とい当時26歳だったヤンゴン大学の歴史学講師が、スーチーの元を訪れ抗議運動のリーダーになってほしいと持ちかけたが、スーチーは「ネ・ウィンに学生たちや罪のない人々を殺さないように頼みました」と答えるのみで、断った。オンミンは日和見主義者という印象を持ち、失望したのだという[5]。他にも、ジャーナリストのウィンティン、映画監督のモートゥー、そして元海軍中尉で作家のマウンタウカの3人が、スーチーの自宅を訪れ、民主化運動に加わるよう説得したが、スーチーは首を縦に振らなかった。しかし、7月23日、ネ・ウィンがビルマ社会主義計画党(BSPP)議長を辞任すると、スーチーは衝撃を受け、民主化運動に加わる決心をしたと、のちに夫のアリスは回想している。件の3人が3回目の訪問をした際、スーチーは民主化運動に加わることに同意した[6][2]。この際、マウンタウカは、インヤー湖のほとりにあるホワイト・ブリッジやスーレーパゴダなど、抗議運動に加わった学生たちが殺された場所を、スーチーに案内して回ったのだという[7]。
しかし、スーチーはすぐには行動を起こさず、まず、中立的立場から政府と抗議者たちの仲介役を務めたいと申し出た。8月15日、スーチーは、ウー・ヌ元首相、ウィンマウン元大統領と連名で、政府と抗議者の調停を行う人民諮問委員会の設置を要請する書簡を政府に送った。しかし、この要請は無視され、ネ・ウィンと非公式に会談を行う要請も無視された。この段になってようやく、スーチーは抗議活動に加わる決心をした。しかしそれでも慎重姿勢は崩さず、最初の公の演説の前に、スーチーは、当時法務大臣を務めていたティンアウンテインと密かに会談し、彼を通してネ・ウィンに演説の承認を求め、その際、「政治的野心」も「隠れた意図」もないことを保証した。ティンアウンテインは、公の場でネ・ウィンについて言及したり、批判したりしないよう助言したのだという[2]。また、スーチーは、セインルインの辞任を受けて大統領に就任したマウンマウンとも秘密裏に面会し、政治活動を開始する旨を告げた。マウンマウンはキンチーの弁護士を務めてたことがあり、旧知の仲だった。マウンマウンは、政治活動のリスクを説明し、「おそらく苦しむことになるだろう」と優しく警告、また「自分は政府関係者であるため、今後、気軽に会うのは難しいだろう」とも告げたのだという。2人は友好的に別れ、その後、2度と会うことはなかった[8]。
8月24日、スーチーは、マウンタウカと有名女優のキンティダートゥン(Khin Thida Htun)に伴われて、ヤンゴン総合病院の外に設けられた仮設演壇に立って初めての演説を行った。その内容は、自身の政治関与に関する噂を認め、民主化への希望を表明し、2日後にシュエダゴン・パゴダで行われる自身の演説を聞きにくるように呼びかけたるもので、何度も「規律」という言葉を連呼した[9]。
重要なのは、平和的かつ規律正しく抗議することです。私たちは皆、永続的な連合を望んでいます。永続的な連合を築くには、人々が規律を持たなければなりません。団結と規律がなければ、いかなる政治体制も国のためにはなりません…民衆の力は非常に強大です。しかし、その力が真実によって支えられなければ、その力は我々自身にとって有害になりかねません。ですから、真実によって民衆の力を制御すべきです…真実なき権力は、誰にとっても危険です。私たちは金曜日に公開集会を開催する計画を立てました。平和的かつ規律正しく開催した場合にのみ、集会は成功します。国民に規律がなければ、国は決して成功しません。規律を示し、団結し、平和的に協力しましょう。私たちの国民が非常に規律正しく、誠実であることを世界に知らせましょう…今回はスピーチを短くします。来週の金曜日に詳しくお話しします。 — アウンサンスーチー
しかし、スーチーがティンアウンテインとの会談で伝えた「演説」はこの演説のみで、シュエダゴン・パゴダの演説については伝えていなかった[2]。
シュエダゴン・パゴダの演説

スーチーの演説は8月26日午前10時に始まる予定で、前日の午後からシュエダゴン・パゴダ西側の広場に寝袋持参で人々が集まり始め、開始予定時刻には約50万人に膨れあがっていた。しかし、会場に爆弾が仕掛けられたという噂が立ち、開始は遅れた[10]。
雰囲気はお祭り気分でしたが、実際の集会が始まる前に爆弾騒ぎが何度かありました。私たちは午前7時に到着しましたが、ステージを捜索し、怪しそうな人物を確認するのに3時間以上かかりました。シュエダゴンの外の広場は人でいっぱいでした。ウー・ウィサラ通りや集会場所へ通じる他のすべての道も人でいっぱいでした。私たち学生と僧侶は警備を担当し、彼女が登場するステージの周りに人間の鎖を作りました。
午前11時頃、ようやくスーチーが姿を現した。あまりにも多くの人々が集まったため、スーチーを乗せた車は集会場所の外で止まらなければならず、彼女は耳をつんざくような拍手と歓声の中、残りの距離をステージまで歩いていった。ステージの上にはアウンサン将軍の巨大肖像画と第ニ次世界大戦の抵抗旗が掲げられていた。有名な映画俳優・トゥンエーがスーチーを紹介し、演説が始まった。最初は僧侶と国民への挨拶、次に殺害された学生たちを追悼して聴衆に1分間の黙祷を求めた。そして、複数政党制や民主主義について軽く触れた後、最初に話題にしたのは自らの出自だった。これは、国防省情報局(DDSI)による、イギリス人と結婚したスーチーを中傷するビラが街中で配られていることに対する反駁だった[11][10]。
私は人生の大半を海外で過ごし、外国人と結婚しているので、この国の政治の影響をよく知らないはずだと言っている人が大勢います。私は非常に率直に、オープンに話したいと思います。私が海外に住んでいたことは事実です。また外国人と結婚していることも事実です。しかし、これらの事実は、私の祖国に対する愛と献身をいかなる程度でも妨げたり、弱めたりしたことは1度もありませんし、これからも決してありません。私はビルマの政治について何も知らないと人々は言っています。問題は、私が知りすぎていることです。私の家族は、ビルマの政治がいかに悪質であるか、そして父がそのためにどれほど苦しまなければならなかったかを誰よりもよく知っています。 — アウンサンスーチー
次にスーチーは、父親の言葉[注釈 1]を引き合いにして、自分が政治に参加した理由を説明した。それは、父親も自分も権力闘争には興味はなかったが、父親が志したミャンマーの民主主義が危機的状況に陥っているのに無関心でいられなくなり、やむを得ず立ち上がったというものだった。そして、スーチーはそれを「第2の独立闘争」と呼んだ[2][11]。
政治に手を染めたくないのなら、なぜ今この運動にかかわっているのか...答えは、現在の危機が国家全体に降りかかっているから、ということです。あのような父を持った者として、現在の状況に、目をつぶったままでいるわけにはいきませんでした。今ビルマに満ちている危機は、事実上、国家独立のための第二次闘争と言っていいほどなのです。 — アウンサンスーチー
これはスーチーの後継者宣言であり、同時に、その著書『ビルマとインド: 植民地主義下の知的生活のいくつかの様相(Burma and India Some Aspects of Intellectual Life under Colonialism)』[注釈 2]の中で述べた、「ミャンマーの発展が遅れた理由は、伝統文化に固執して、優れた西洋文化を取り入れることに失敗したから」というスーチーの信念に依っていた。スーチーは民主主義こそ東西文明の融合を果たす手段だと信じていた[2]。 さらに、スーチーは、父親はミャンマー軍(以下、国軍)の創設者だが、その国軍と国民との間に不和が生じていることを嘆き、再び父親の言葉を引用して、国軍は「国民の名誉と尊敬を集める軍隊」であるべきで、国民に「国軍への愛情を失わないように」と訴えた[11]。
率直に申し上げます。私は軍隊に強い愛着を感じています。軍隊は父によって築き上げられただけでなく、幼少期には父の兵士たちに育てられました。同時に、国民が父に抱く深い愛情も知っています。私はこの愛情に深く感謝しています。ですから、父が築き上げた軍隊と、父を深く愛する国民との間に、いかなる分裂や争いも見たくないのです。この演壇から、軍隊の皆さんにも、このような理解と共感を示していただきたいと願っています。軍隊が国民から信頼され、頼りにされる軍隊となるよう、強く訴えます。 軍隊が、わが国の名誉 と尊厳を守る軍隊となることを願います。国民には、すでに起こったことを忘れるよう努めるべきであり、軍への愛着を失わないよう訴えたい。 — アウンサンスーチー
後年の国軍との激しい対立を考えれば、いささか奇妙にも思えるが、これは国軍から離反者が出ることを期待してのものだった[2]。
その後、演説は、自分の裏にはなんら権力者がいないこと、複数政党制を要求すること、多数派のビルマ族は少数派に寛容であるべきこと、規律を重視することを訴えて終わった。演説時間は約30分。後年、ミャンマーの歴史を変えた名演説とも評されているが、現場に居合わせた外交官の藤田昌宏によると、スピーカーの出力が弱くて演説内容が聞き取りにくく、壇上のスーチーも原稿を淡々と読みあげるばかりで迫力がなく、精彩を欠いていたのだという[12][13]。
しかし、やはり現場に居合わせた人々は、アウンサンの生き写しのようなスーチーの姿に驚き、確実にその心を掴まれていた[14][15]。
彼女の話し方、顔色、顔立ち、身振りが父親と驚くほど似ていた。彼女はほとんどあらゆる点で父親に似ていた。私は彼女が女性版のレプリカだと思った。 — ティンウー(のちのNLD議長)
彼女の演説が勢いを増すにつれ、アウンサンスーチーは成人してからの人生の大半を海外で過ごしてきたものの、彼女の家族の歴史、そして彼女の知識、知性、そして祖国への情熱が、ビルマの第二次独立運動において指導的役割を担う資格を即座に与えたことを、誰もが認めるようになった。 — アウンゾー(『エーヤワディー』創刊者)
皆が驚いたのは彼女の成熟した様子だった。彼女は上品でありながら簡潔に話し、誰もが彼女の言いたいことを正確に理解できるようにした。老人の錯覚かもしれないが、私にとって彼女は1988年8月にアウンサンになったのだ。 — デモ参加者
演説をテーマにした創作
リュック・ベッソン監督の2011年の作品『The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛』では、ミシェル・ヨーがアウンサンスーチーを演じ、シュエダゴン・パゴダの演説を全編ミャンマー語で演じている。
脚注
注釈
- ^ 「私たちは民主主義を国民の信条としなければならない。そして、その信条に沿って自由なビルマを築きあげなければならない。もし私たちがこれを怠れば、私たちの国民は必ず苦しむことになる。民主主義が失敗すれば、世界はただ傍観することはできない。そうなれば、ビルマはいつの日か、日本やドイツのように軽蔑されるようになるだろう。民主主義は自由と両立する唯一のイデオロギーであり、平和を促進し、強化するイデオロギーでもある。それゆえ、私たちが目指すべき唯一のイデオロギーなのだ」
- ^ 『自由 自ら綴った祖国愛の記録』に「植民地統治下のビルマとインドの知的活動」というタイトルで収録。
出典
- ^ スーチー 2000, p. 210.
- ^ a b c d e f g h Lubina 2020, pp. 23–29.
- ^ ポパム 2012, p. 62.
- ^ スーチー 2000, p. 241.
- ^ ポパム 2012, pp. 69–72.
- ^ “A Tribute to Maung Thaw Ka”. The Irrawaddy. 2024年11月28日閲覧。
- ^ ポパム 2012, p. 63.
- ^ Aungzaw 2014, p. 13.
- ^ “The Day Daw Aung San Suu Kyi Made Her First Public Appearance in Myanmar”. The Irrawaddy. 2025年8月6日閲覧。
- ^ a b Lintner 1995, 2505.
- ^ a b c “Speech to a Mass Rally at the Shwedagon Pagoda” (英語). Online Burma/Myanmar Library 2025年8月6日閲覧。
- ^ “The Day Suu Kyi Made Her First Public Address in Myanmar”. The Irrawaddy. 2025年8月6日閲覧。
- ^ 藤田 1989, pp. 260–261.
- ^ Lubina 2019, pp. 183–184.
- ^ “Aung San Suu Kyi & The Speech at Shwedagon Pagoda”. Pepperdine Digital Commons. 2025年8月6日閲覧。
参考文献
- 藤田, 昌宏『誰も知らなかったビルマ』文藝春秋、1989年。ISBN 978-4163435800 。
- アウンサンスーチー 著、ヤンソン由実子 訳、マイケル・アリス 編『自由 自ら綴った祖国愛の記録』集英社、1991年。 ISBN 978-4087731408。
- アウンサンスーチー 著、伊野憲治 訳『アウンサンスーチー演説集』みすず書房、1996年。 ISBN 978-4622050018。
- ポパム, ピーター『アウンサンスーチー 愛と使命』明石書店、2012年。 ISBN 978-4750336206。
- Lintner, Bertil (1995) (Kindle版). Outrage : Burma's Struggle for Democracy. Weatherhill; Subsequen. ISBN 978-0951581414
- Aung Zaw (2014). The Face of Resistance: Aung San Suu Kyi and Burma's Fight for Freedom. Silkworm Books. ISBN 978-6162150661
- Lubina, Michal (2019). The Moral Democracy: The Political Thought of Aung San Suu Kyi. Scholar. ISBN 978-8365390004
- Lubina, Michał (2020). A Political Biography of Aung San Suu Kyi: A Hybrid Politician. Routledge. ISBN 978-0367469160
関連項目
外部リンク
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