アウンサンスーチーの経済思想
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アウンサンスーチーの経済思想(アウンサンスーチーのけいざいしそう)について詳述する。
対ミャンマー経済制裁支持
オックスフォード大学在学中、スーチーは、当時、アパルトヘイトの実施で国際的な批判を浴びていた南アフリカ産製品ボイコット運動に参加した。そして、欧米諸国の経済制裁が、1994年にパルトヘイトを廃止に追いこんだという認識から、1995年7月10日に1度目の自宅軟禁から解放された頃から、スーチーは、ミャンマーに対する経済制裁を諸外国に訴えるようになった[1][2][3]。
スーチーは、「公正な政治機構があって初めて経済的繁栄があるのであり、それまでは経済よりも政治を優先するべき」と考えていた。その考えの一端は、1989年4月27日にカチン州ミッチーナーで行った演説の中にも見られる[4]。
ビルマ社会主義計画党(BSPP)の統治時代にビジネスで成功を収めた人もいくらかいますが、だからといって、彼らは稼いだお金で何ができたでしょう?状況が常に悪化し続けているビルマのような国においては、お金があったとしても、繁栄をどうやって感じることができるというのでしょうか?たくさんの人たちが、そのお金で子供たちを海外へ出しました。このような若者と一緒に、どれほど多くのお金をわが国が失ったかを少し考えてみてください! — アウンサンスーチー
スーチーは、経済制裁が国民に「短期的な苦しみをもたらす」ことは理解していたが、大多数の人々が「国家法秩序回復評議会(SLORC)が権力を握って以来、経済機会からほとんど何も利益を得ていない」ので、「ひどく苦しむことはない」と考えていた[5]。
1996年にSLORCが観光振興を目的として実施した「ミャンマー観光年」にも「ホテルや観光地は強制労働、強制移住など多くのミャンマー人の犠牲の上に成り立っている」という理由でボイコットを呼びかけた[6]。日本人の観光客のグループが、スーチーは自宅前演説集会を見物していると、それを見とめたスーチーが、「(観光客が落とすお金が軍事政権を潤すから)どうかミャンマーへはもう来ないでください。日本のお友だちにもミャンマーに来ないように伝えてください」と言い放ったということもあったのだという[7]。
スーチーの批判の矛先は、日本の大企業・ODAにも向けられ、『ビルマからの手紙』には、以下のような記述がある[8]。
自分たちの懐を豊かにしたいと思ってビルマにやってくるビジネスマンたちを観察していると、果樹園のなかであえかな美しさにひかれて蕾を乱暴にむしり取ってしまい、略奪された枝の醜さには目が行かず、その行為によって将来の実り多い収穫を危うくし、樹木の正当な持ち主に対して不正を働いているという事実に気づかない通りすがりの人を見るようなところがある。こうした略奪者の中に日本の大企業もいる。しかし、彼らが日本の最良の部分を代表しているわけではない。 — アウンサンスーチー
また、1998年2月、日本政府がヤンゴン国際空港改修工事のために25億円の円借款を発表した際は、再び『ビルマからの手紙』で、以下のように批判した[9]。
日本政府はつい最近、ラングーンの国際空港の補修のためにかなりの額の資金を供与する決定を行った。この額は1988年の騒乱以前にビルマに対して供与が決まっていた当初総額のごく一部に過ぎず、予定されている補修は着陸する航空機の基本的な安全を確保するために不可々なものであると説明された。だが私の聞くところでは、ICAO(国際民間航空機関)は日本の資金が使われる安全装置は必要不可なものでないという見解であるという。だとすれば、日本政府の決定は理解に苦しむ。ビルマへの授助は1988年以後、軍事政権が人権を侵害しているとの理由で停止された。援助の再開はいかなる形態のものであれ、ビルマの人権の成績が向上したとする主張を基づけるものとして、既得権益をにぎった連中たちに利用されるのは疑いなかろう...日本政府の決定には深い失望を禁じえない。国連の世界人権宜言の50周年記念にあたる今年、それは人権をないがしろにする決定である。 — アウンサンスーチー
影響と批判・反論
影響
このスーチーのミャンマーに対する経済制裁の呼びかけに強く反応したのがアメリカで、1997年5月、第2次クリントン政権下でアメリカ人がミャンマーとあらゆる種類のビジネスを行うことが禁止され、ブッシュ・ジュニア政権下では2003年のビルマ自由・民主化法と、2008年のトム・ラントス・ビルマJADE禁輸法により、すべてのミャンマー産製品の輸入が禁止された。またこのような反SLORC/SPDCキャンペーンに民間企業も抗えず、モトローラ(1996年)、ペプシコーラ、アップル、テキサコ(1997年)、コンパック(1998年)がミャンマーから撤退、その後、リーボック、ベストウェスタン、IBMも撤退した[10][11][12]。またアメリカの影響が強く、ミャンマーへの国際支援を統括していた国連開発計画(UNDP)は、1998年11月に可決されたアメリカ国内法により、ミャンマーの民主派(国民民主連盟《NLD》およびビルマ連邦国民連合政府《NCGUB》)との事前協議なしに、アメリカはミャンマー向けUNDPの新規資金を承認も支援もしないと規定され、その行動に大きな制約が課せられた[13]。EUもアメリカに追随し、1997年3月、ミャンマー産農産物および工業製品に対する一般特恵関税制度(GSP)にもとづく貿易特権を正式に撤回した[14][15]。日本は欧米諸国とは一線を画し、ミャンマーに経済制裁は課さなかったが[16]、大半の日本企業はSLORC/SPDCと関わることで人権侵害に加担しているという批判をおそれ、ミャンマーへの投資や企業活動に慎重になった[17]。
実際、こうした経済制裁はそれなりに効果があったようで、SLORC/SPDCと取引関係があった、ある外国人ビジネスマンは以下のように語っている[18]。
政府機関は予算不足だった。1990年代初頭、経済が好調だった頃は、タイやマレーシアの政府機関と同等の機能を果たしていた。政府に大量のコンピューターや新型機械を販売することができました。かつては、政府は私たちから購入した商品の支払いを非常に迅速に行っていた...今では、政府機関に何かを売るたびに、支払いを受けるまでに長い時間がかかる。
批判・反論
しかし、ミャンマーに対する経済制裁については、当初から賛否両論だった。たとえ、欧米諸国がミャンマーに経済制裁を課しても、中国、インド、タイ、ASEANなどの近隣諸国が経済関与を継続していたので、あまり意味がなかったる[18]。
あるミャンマー政府外交官は、以下のように語っている[18]。
西側諸国はわが国をまるでのけ者国家のように扱った。もし近隣諸国が西側諸国の側に立っていたら、国際的圧力に耐えることは非常に困難だっただろう。しかし、今では、中国が国連安全保障理事会によるわが国への経済制裁措置を支持することはないと確信している。政府高官たちにとって、中国、インド、ロシア、そしてASEAN諸国からの支援は、西側諸国からの圧力に屈する必要はないと確信させるものだった。友好国の支援と協力があれば、制裁を回避できると彼らは信じていた。
ミャンマー経済学者・工藤年博は、以下のように結論づけている[19]。
経済制裁の影響は軍事政権よりも、一般市民の方により重くのしかかった...結局のところ、雇用を失い、生活の糧を失ったのはそうした縫製工場で働く労働者だった...多くの場合、縫製産業の労働者の雇用喪失はヤンゴンで暮らす家族の、また故郷で暮らす親世帯の、主要な収入源の喪失を意味した。さらには、経済制裁は国有企業、軍関連企業、そしてミャンマーに投資する外資系企業を主要な標的としていたにもかかわらず、現実に大きな打撃を受けたのは国内の民間企業であった...経済制裁は国内民間企業に与えたほどの影響を、軍関連企業や外資系企業に与えていない... — 工藤年博
しかし、自宅軟禁中、たびたびスーチーと面会していた、アメリカ下院議員・ビル・リチャードソンが、著名なミャンマー学者・デヴィッド・I・スタインバーグの言葉を引いて、「日本やシンガポールのように軍政へ関与し続けることこそが、ミャンマーの民主主義を発展させる良い方法だ」と説得しても、スーチーは「それで状況が改善するとどうやって考えられるんですか?」と反論したのだという[20]。スーチーは非民主国家であるシンガポールが経済発展した理由を、その教育水準の高さと政府の公正さに求め、ミャンマーとは事情が違うと考えていた[21]。また、日本ではハレーションを引き起こし、深田祐介、草野厚、大前研一などの保守派の論客がスーチー批判を繰り返した[22]。 さらにNLD内でも対立を引き起こし、 スーチーの個人秘書を務めたこともある作家のマ・ダネギは、1998年に『ビルマのおとぎ話』という論稿を発表し、スーチーと経済制裁を痛烈に批判した[23][24][25]。
長年、外国人は私の国の問題を道徳劇のように描いてきました。善と悪の対立、その間にグレーゾーンは一切ない、単純化された構図ですが、世界はそれを信じています。西側諸国の対応も同様に単純です。制裁やボイコットといった「魔法の杖」を使って、悪に対する道徳的な戦いを繰り広げているのです…スーチー氏は外国投資家に近づかないよう、そして外国政府に援助を差し控えるよう求めることで、政府に圧力をかけた。私たちの多くは、これは逆効果だと彼女に警告した。なぜ経済発展と政治の改善は並行して進むことができないのだろうか?人々は食卓に食べ物を並べるために仕事を必要とする。これは壮大で高尚なことのようには聞こえないかもしれないが、私たちが日々直面する基本的な真実だ…2人の欧米人が「制裁とボイコットで経済が悪化すれば、人々は失うものが減り、革命を起こす気になるだろう」と述べた…「自国の安全な場所から見守れる革命」…この素朴なロマン主義は、ここにいる私たちの多くを怒らせます。ビルマ革命を強いるために、わざと私たちを貧しくするつもりですか?アメリカの大学生は自由の闘士ごっこをし、政治家たちは立ち上がり、制裁によって民主主義に打撃を与えていると宣言します。しかし、こうした空虚な英雄的行為の代償を払うのは、私たちビルマ人です。 — マ・タネギ
転向
しかし、2000年代から2010年代にかけて、非民主国家の中国が大きな経済発展を遂げ、スーチーの「公正な政治機構があって初めて経済的繁栄がある」という主張は根拠を失った。2004年3月、自宅軟禁下にあったスーチーは、国連ミャンマー特使・ラザリ・イスマイルと面会したが、その際、何か心境の変化があったのか、「民主主義は将軍たちを通してのみ実現可能」という認識を示し、ミャンマーが近隣諸国と比べてどれほど遅れているかを深く懸念していたのだという。ラザリは「彼女のこの認識は、20回以上も会ったスーチーの、傲慢で信念を貫き、揺るぎない以前の態度とはまったく対照的だった」と述べている[26]。
また、2008年にバラク・オバマが米大統領に就任し、ヒラリー・クリントンが国務長官に任命されると、対ミャンマー経済制裁に対する風向きが変わった。オバマはアジアにおける中国の台頭を脅威と見なし、アジアへの関与を強化しようと考えており、ヒラリーはこれまでの経済制裁が効果を上げなかったことを率直に認めた。この頃、アメリカ政府に助言していたスタインバーグは「アメリカはスーチーを唯一の人格として盲目的に支持するのをやめるべきだ」と主張していた[27]。
2010年11月13日に3度目の自宅軟禁から解放された直後、スーチーは「制裁が国民を傷つけるだけで、制裁の結果として何ら良い結果ももたらさないことが判明すれば、制裁を課した人々に、制裁を停止すべき時ではないかと検討するよう求める」と述べ、2011年1月のダボス会議では、法遵守、環境・社会要因、労働者の権利、雇用創出、技術スキルの向上を尊重しつつ、諸外国にミャンマーに対する投資を呼びかけた。そして、NLDが独自の調査をした結果、「政権に打撃を与える制裁は維持されるべきだが、民間人に打撃を与える制裁は解除されるべき」という結論に達し、国軍関係者に対する標的制裁のみ維持すべきと主張した[28][29][30]。
2012年5月~6月にタイ訪問のためにヤンゴンからバンコクへ飛んだ際、スーチーは機長にコクピットに招かれ、眼下に広がるバンコクの夜景を見て衝撃を受けた。そして、その後のバンコクの講演で「私は灯に完全に魅了された。30年前はバンコクとヤンゴンの夜景は変わらなかったのに」と述べた。また、多くのミャンマー人労働者が水産加工工場などで働くバンコク郊外のマハチャイ地区と、少数民族のミャンマー人難民が多く住むタイ北西部のメラ難民キャンプを訪れ、彼らの困窮ぶりを目の当たりにしたことにも衝撃を受けたのだという。帰国後の記者会見で、スーチーは「政治、経済、社会のすべてタイに並ばなければ、労働者と難民の帰国は実現しません」と述べた[31]。
2016年、NLD政権が発足した際、スーチーは国家顧問に就任したが、その際、外務大臣、大統領府大臣、教育大臣とともに、電力・エネルギー大臣を兼任した。電力・エネルギー分野はスーチーの関心事項だったとされる[32][33][34]。
脚注
注釈
出典
- ^ “Suu Kyi urges Britons to boycott Burma” (英語). The Independent 2025年8月18日閲覧。
- ^ Lubina 2019, pp. 207–208.
- ^ Lubina 2020, p. 51.
- ^ スーチー 1991, pp. 330–338.
- ^ スーチー 2000, pp. 113, 203.
- ^ スーチー 2000, p. 231.
- ^ 山口洋一『ミャンマーの実像』勁草書房、1999年8月30日、90頁。
- ^ スーチー 2012a, pp. 114–115.
- ^ スーチー 2012b, pp. 109–110.
- ^ “バイデン米大統領、ミャンマー向け制裁の検討を示唆(ミャンマー、米国) | ビジネス短信 ―ジェトロの海外ニュース”. ジェトロ. 2025年6月30日閲覧。
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参考文献
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- アウンサンスーチー 著、土佐桂子, 永井浩 訳『新ビルマからの手紙 1997~1998/2011』毎日新聞社、2012年。 ISBN 978-4620321196。
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- Selth, Andrew (2017). Be careful what you wish for : the National League for Democacy and government in Myanmar. Griffith University
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関連項目
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