アウンサンスーチーと少数民族との関係
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アウンサンスーチーと少数民族との関係(あうんさんすーちーとしょうすうみんぞくとのかんけい)について詳述する。
少数民族との関係
少数民族への無関心
1989年4月27日、カチン州ミッチーナーで行った演説の中で、スーチーは、「母がさまざまな民族の看護婦を自宅に泊め、彼女たちとともに育ったことにより、他民族への理解が深まった」と述べている[1]。しかし、1974年12月にウ・タント葬儀弾圧事件が起こった直後、駐緬イギリス大使のゴア=ブースが、スーチーに事件の黒幕について尋ねたところ、スーチーは「シャン族によって企てられたものであり、成功の見込みはなく、人命を失うだけで許されるものではない」と述べたのだという。ブースはこの見解を「典型的なビルマ族の反シャン族の立場」と評している[2]。1985年に出版したガイドブック『ビルマを訪ねて[注釈 1]』では、「カレン族には…多くのキリスト教徒と少数の仏教徒がいる」と記しているが、これは誤りで、実際はカレン族の70%は仏教徒で、10~20%がキリスト教徒、それ以外がアニミズム、極少数がムスリムという構成である[3]。1995年~1996年のアラン・クレメンツの少数民族に関する質問に対して、スーチーは「さまざまな民族に関してお話することは、私にはできません...論評できるほど、彼らの文化については深く勉強していません」と述べている[4]。
ビルマ族中心主義
1988年~1989年の間の選挙運動中、シャン州やカチン州など少数民族の地域を訪れた際、スーチーはその民族の衣装を身にまとい、熱狂的な歓迎を受けた。ただし、彼女が次から次に衣装を着替えるのを少し気恥ずかしく思っていたようだ。スーチーは演説の中でたびたび少数民族問題を取り上げたが、それは、内容空疎なスローガン[注釈 2]と道徳的メッセージに終始するもので、具体的な提案はなかった。しかも、「まず民主主義を実現し、その後、民族問題に取り組む[5]」という主張は、スーチー含む国民民主連盟(NLD)の幹部のほとんどがビルマ族であることに鑑みれば、ビルマ族主導の政府が憲法を制定した後、少数民族との交渉を開始すると言っているに等しく、その過程では少数民族になんら権利を与えないものだった[6]。また、遊説中、スーチーは「パンロン会議の精神」に頻繁に言及したが、そもそもパンロン会議にはシャン族、カチン族、チン族の代表しか出席しておらず、アウンサンがそれらの民族に連邦への参加を求めたのは独立の体裁を整えるため、少数民族側は経済的利益のためであり、スーチーの言説ははなはだ理想化がすぎていた[7]。
そして、前述した1989年4月27日のミッチーナーの演説の最後に、スーチーは、「『私はカチン族です』『私はビルマ族です』『私はシャン族です』という態度をとるべきではありません。私たち全員が民主的権利を求める同胞であるという態度を取るべきです」と訴えたが、演説のビデオを観たバーティル・リントナーによると、聴衆が賛同している様子はなかったのだという。リントナーは、「このような態度では、ミャンマーの民族問題を解決するのは不可能」と述べ[8]、マシュー・J・ウォルトンは「スーチーが民族的アイデンティティからの脱却を呼びかけることができるのは、まさに彼女自身の民族的アイデンティティに問題がないからである。彼女は、民族紛争が歴史的に現実に及ぼし続けている影響を事実上無視しているだけでなく、非ビルマ族が経験している犠牲と苦しみの格差も認めていない。彼女は彼らに、自らの不正と抑圧の経験を脇に置き、自身の計画に従うよう求めている」と述べている[9]。
1994年11月21日、マニラで開催された世界文化開発委員会で代読された、スーチーの論稿「平和と発展の文化のためのエンパワーメント」には、以下のような言葉が引用されている[10]。
国家建設の過程において…ビルマにおける少数派の概念は変化した。ある集団が自らを国家と定義するにつれ、その集団外の人々は少数派となる…もちろん、伝統的なビルマにも少数派が存在した。権力エリートに近い人々は自らを優位とみなし、権力エリートから疎外され劣位とみなされた。多数派を定める基準は、人種や民族ではなく、権力へのアクセスに基づいていた。したがって、少数派とは、権力へのアクセスが困難な人々のことだった。
「多数派を定める基準は、人種や民族ではなく、権力へのアクセスに基づいていた」という理解は、植民地時代以前のミャンマー社会には「少数民族」は存在せず、「少数民族」は英植民地支配下の「分割統治」の結果生まれたとする、現在では各方面から疑義が呈されている見解に、スーチーが立脚していることを示唆している[注釈 3]。そして、これは紛れもなくビルマ族の少数民族に対する支配・抑圧の歴史的事実を無視した、ビルマ族中心史観であり、ミャンマー軍(以下、国軍)の歴史観と一致するものである[11]。
21世紀のパンロンの失敗
1990年代~2010年にかけては、SLORC/SPDCと多くの少数民族武装勢力との間で停戦合意が結ばれたが、スーチーは「永続的な和平協定ではない」と批判的だったが、代案として「(永続的な和平を)実現する唯一の方法は、すべての少数民族が、恐れることなく、自分たちの希望、願い、不満を表明できるような枠組みを作ることです。法的な枠組みのなかで、彼らの感じていることすべてを表現することが許されなければなりません。そうすることによって、私たちは相互理解に達することができるでしょう」と相変わらず道徳的メッセージを発するだけだった[12]。
2010年11月13日に3度目の自宅軟禁から解放されたスーチーは、その2日後にNLD本部前で行った演説で、「国民和解のためには、21世紀の課題に取り組む第2回パンロン会議が必要だ」と主張するなど、少数民族問題の解決に意欲を示した。11月20日には、少数民族武装組織の連合体・統一民族連邦評議会(UNFC)の代表者と会談[13]、2011年7月には、テインセイン大統領と、カチン独立機構(KIO)、カレン民族同盟(KNU)、新モン州党(NMSP)、シャン州軍(北)(SSA-S)などの少数民族武装勢力の指導者たちに、「私が関与して、全力を尽くして停戦と和平プロセスを支援する用意がある」とする書簡を送った[14]。そして、2012年8月、連邦議会議員となったスーチーは、議会初の演説で、「真の民主主義国家の出現」の一環として、貧困に苦しむ少数民族の権利を保護する法律の制定と差別の撤廃を訴え、「連合の精神、平等な権利、そして相互尊重を備えた真に民主的な連邦となるために、私はすべての連邦議会議員に対し、少数民族の平等な権利を守るために必要な法律の制定について議論するよう強く求めます」と述べた。また、スーチーは、チン州、カチン州、シャン州、ラカイン州における貧困率の急上昇を指摘し、「少数民族州における高い貧困率は、少数民族地域の発展が不十分であり、これらの地域における民族紛争が終結していないことを明確に示しています」と締めくくった[15]。しかし、テインセイン政権下で進められた全国停戦合意(NCA)には、スーチーもNLDもほとんど関与しなかった。
また、テインセイン政権への協力姿勢には代償が伴った。2011年、国軍とKIAとの間の停戦合意が破棄され、戦闘が勃発し、国軍がKIAの拠点に激しい空爆を加え多数の死傷者を出した。しかし、この際、スーチーは「私はいかなる種類の戦争も暴力も好きではありません」と述べるだけで具体的な行動を起こさなかった[16]。また、カチン統一民主党の女性議員が、「カチン州の和平を促す発言をスーチーに求めたが、彼女は何も言わず沈黙したままだった」「ぜひ停戦のメッセージを世界に向けて発信してほしいとお願いしたが、スーチーは会議室で私と目を合わそうとしなかった」「世界21か国に移住しているカチン族からも同様の手紙をスーチーに送ったが、スーチーからの反応はなかった」のだという。ヒューマン・ライツ・ウォッチは2013年の年次報告で「NLDは(何も発言しないことで)カチン州の国軍による戦争犯罪を推進している」「スーチーは少数民族のために立ち上がらず、失望させた」と厳しく批判した[17]。
2016年にNLD政権が成立し、国家顧問に就任したスーチーは、「パンロン会議の精神」を引き継ぐべく、連邦和平会議 - 21世紀パンロンを開催した。しかし、その際、スーチーは、テインセイン政権下で少数民族武装勢力との和平交渉にあたっていたミャンマー平和センター(MPC)を解散し、代わりに国家顧問府直轄の自らを長とする、国家和解平和センター(NPRC)を設立。その実質的交渉役に彼女の主治医のティンミョーウィンを任命した。彼は8888民主化運動に関わった活動家で、自宅軟禁中のスーチーの連絡役であり、軍医の経験はあったが、政治経験は皆無。これはMPCが蓄積したノウハウを放棄することを意味した[18]。
スーチーは2016年から2020年にかけて計4回、会議を主催して和平交渉を進めた。しかし、相変わらずスーチーはスローガン[注釈 4]、激励のメッセージ[注釈 5]、道徳的説教[注釈 6]、やればできるの精神[注釈 7]などを繰り返すだけで、実効的措置を取ることはなく、「歴史的に適切なサービスや承認を受ける機会を奪われてきた少数民族との信頼関係構築にほとんど役立たなかった」(メアリー・キャラハン)。結局、会議ではNMSPとラフ民主同盟(LDU)という小さな組織が停戦合意を結んだだけで、テインセイン政権を下回るパフォーマンスしか残せなかった[19][18]。
少数民族との関係悪化
21世紀のパンロンの失敗以外でも、NLD政権下では少数民族との関係はむしろ悪化した。2017年、モン州の州都モーラミャインと島を結ぶ橋が完成した際、NLDはその橋を「アウンサン将軍橋」と命名したが、これが住民の大きな反発を呼び、数万人規模のデモに発展した[注釈 8]。2019年にはチン州でアウンサン将軍像建設計画に住民が猛反発して計画を撤回に追いこまれ、同年、カレンニー州では、公園に設置されたアウンサン将軍像を取り囲んで撤去を求める住民に対して、警察がゴム弾と催涙弾を撃ちこんで多数の負傷者を出す事件が発生した[20]。また、2018年~2020年の間、ラカイン州で国軍とアラカン軍(AA)との間で激しい戦闘が発生したが、その際、スーチーはAAに対して非常に強硬な姿勢を取り、AAおよび彼らを支持する多くのラカイン族の反感を買った。その他にも各地で民族紛争が激化し、コーコージーは「NLDの最優先事項は国内和平だったが、紛争は拡大している。『国軍は政府の同意のもと攻撃を続けている』と少数民族に思われてもおかしくない」と指摘した[21][22][23][24][25]。
また、NLD政権下でも少数民族の権利促進は進まなかった。2016年~2020年の間、少数民族地域での母語教育の提供や、学校のカリキュラムへの少数民族の歴史・文化の導入に関して、ほとんど進展がなかった[26]。カレン人権グループの2020年のレポートでは、NLD政権はビルマ化政策を継続していたと結論づけられ[27]、カレン州の一部の地域では、放課後しかカレン語の授業が許可されず、生徒の学習意欲が低下しれいたのだという。また、2016年初頭にはシャン州北部に住むモンウォン族がモンウォン・バマー族と再分類された。これは中国系の彼らをビルマ族に同化させる政策の一環として理解されていたが、NLD政権はこの事実をしばらく隠していた[28]。
ロヒンギャとの関係
ロヒンギャはミャンマー人にあらず
ロヒンギャに対するミャンマー人の一般的見解は「独立後に流入した不法移民の『東パキスタン人(バングラデシュ人)』であるが、スーチーのロヒンギャ観も同様である。デーヴィッド・キャメロン元英首相は、2019年に出版された回顧録『For The Record』の中で、2013年10月にロンドンでスーチーと会談した際、スーチーが「彼らは本当のビルマ人ではありません。バングラデシュ人です」と述べたと記している[29]。
また、スーチーは、1979年11月13日にオックスフォード大学で行った講演で、ビルマ族の対インド人観として以下のように述べた、と元イギリス外交官・ジェームズ・ホーアが報告している[30]。
主にビルマのインド人を指して指したインド人について「愛憎関係があり、憎悪が優勢かもしれない」と彼女(スーチー)は言った。インドはブッダの国として尊敬されていたが、インド人は貧しい苦力か、あるいは強欲な金貸しか地主と見なされていた。貧しい苦力のイメージがあまりにも強かったため、多くのビルマ人、たとえ高学歴の人々でさえ、インドに裕福なインド人や過去のインドの偉大さの痕跡を見つけて驚いたものである。ムスリムに対する嫌悪感は特に強かった。彼らの食習慣、特に儀式的な殺人は大きな反感を買った。(「ビルマでは人の喉を切るのは構わないが、動物に同じことをするのは凶悪犯罪だ」と彼女は述べた。)また、一夫多妻制のためにムスリムがビルマ人を圧倒するのではないかという、教育を受けた人々の間でさえも、根拠のない恐怖が存在した。 — アウンサンスーチー
このムスリムに対する「根拠のない恐怖」をスーチーも共有していた。2012年~2013年の間、各地で仏教徒とムスリムとのコミュニティ紛争が起きた際、スーチーは以下のように述べている[31]。
恐怖感はムスリムだけでなく、仏教徒にも及んでいます。ムスリムが標的にされただけでなく、仏教徒も暴力にさらされてきました…世界的なムスリムの力は非常に大きく、それは確かに世界の多くの地域、そしてわが国でも認識されています。 — アウンサンスーチー
また、2013年にBBCのパキスタン系英国人キャスター・ミシャル・フサインからロヒンギャ問題についてインタビューを受けた後、スーチーは「よりによってイスラム教徒なんかからあれこれつつかれるなんて、誰からも聞かされていなかったわ」と周囲に当たり散らしたとされ、この事実は2016年に出版されたピーター・ポパムの評伝『レディと将軍たち(The Lady and the Generals)』において暴露され、多くの人々を失望させた[32][33]。
ただ、ロヒンギャはともかく、ムスリム一般に対する偏見を持っていたかどうかは疑わしく、大学時代の恋人は、のちに外務省に入ったタリク・ハイダンというパキスタン人男性で、8888民主化運動の際にスーチーを政界へ向かわせたマウンタウカもムスリムだった[33]。
ロヒンギャ危機で失墜
2012年6月3日、ラカイン族の少女がロヒンギャ男性に強姦され殺害されたことに激怒したラカイン族の人々が、バスに乗っていたロヒンギャを10人殺害する事件が発生した。その3日後、スーチーがNLD本部で開かれた記者会見でこの事件に触れ、「少数派への共感をもつべきだ」と短くコメントしたところ、これがSNS上で炎上、珍しく国民から大きな批判に晒された[34][35]。以降、スーチーはこの事件に沈黙し、その後の半月にわたる欧州訪問の間も、ロヒンギャにミャンマー人と認めるべきかという質問に対して、「わからない」と答え、法の支配に言及するのみにとどまるなど、慎重な受け答えに終始した[36]。その間、スーチーは一度もロヒンギャを支持する発言はせず、「ロヒンギャ」という言葉も使わなかったが、逆にロヒンギャに対する蔑称である「ベンガル人」という言葉も使わず、中立的立場を維持した。ミャンマー人のロヒンギャに対する嫌悪感の強さを考えれば、マウンザーニが言うように「政治的に見て、スーチーがこの件について口を開くことで得られるものはまったくなかった」[37]。
2016年にNLD政権が成立し、国家顧問に就任したスーチーは、元国連事務総長・コフィー・アナンを長とするラカイン州諮問委員会を設置し、ロヒンギャ問題を含むラカイン州のさまざまな課題に取り組む姿勢を見せた。しかし、同時並行で取り組んでいた連邦和平会議 - 21世紀パンロンには、ロヒンギャの代表は1度も呼ばれなかった[38]。そして、2016年10月19日、のちにアラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)と判明するロヒンギャの武装組織が、ラカイン州の国境警察隊の複数の監視所を銃や爆弾で襲撃して、警察官9名が殺害される事件が発生した。11月12日には、同じ武装組織が、ラカイン州の国軍の部隊を急襲し、警官1人、兵士1、武装集団の兵士6人が死亡。3日間の戦闘で、死者数は134人(国軍32人、武装集団102人)に上った[39]。これらの襲撃に対して国軍は大規模な掃討作戦を開始し、数か月間でマウンドー地域では1,500棟以上の建物を破壊、1,000人ものロヒンギャを殺害し、約7万人のロヒンギャがバングラデシュに流出する事態となった[40]。
国際社会からは「民族浄化」と大きな非難の声が上がったが[41][42]、スーチーはここでもロヒンギャの側には立たず、「元はと言えば、武装勢力の襲撃に対して国軍が反撃したことがきっかけだ」「今起きていることを言い表すのに民族浄化は表現が強すぎる」などと抗弁し[43]、国際調査団の受入れを拒否[44]。スーチーの公式Facebookページには「偽のレイプ」という文言が貼りつけられた[45][46]。スーチーのこのような姿勢は、デズモンド・ツツなどノーベル平和賞受賞者仲間からも批判されたが[47]、スーチーはこれに憤慨し、「『世界が理解できない理由』を理解していなかった」のだという[48]。2017年1月29日には、NLDの法律顧問で、ムスリムのコーニーが、ヤンゴン国際空港の玄関を出たところを射殺されたが、スーチーは、反ムスリム感情に配慮して葬儀を欠席した[49]。
そして、2017年8月25日、ラカイン州諮問委員会が最終報告書を提出した翌日、ARSAが、鉈や竹槍で武装した約5,000人住民を引き連れて、約30か所の警察署を襲撃するという事件が発生。国軍の激烈な掃討作戦により、約70万人のロヒンギャ難民がバングラデシュに流出するという未曾有の流出劇(ロヒンギャ危機)が発生した。しかし、9月19日にスーチーがネピドーで行った演説は、「ラカイン州のムスリムの大多数がこの大量脱出に加わっていないことは、あまり知られていない」「国全体を考えていただきたい。小さな被害地域だけを考えるのではなく、国全体を見ていただきたい」「他者にも私たちの視点を理解してもらうための寛容さと勇気も必要だ」などと事件の詳細に触れず、国軍批判もしない内容で[50]、スーチーに対する国際的批判が高まり[51]、ノーベル平和賞剥奪運動が巻き起こり[52]、アムネスティ・インターナショナルの良心の大使賞など数々の名誉が剥奪された[53]。そして、2019年11月11日、ミャンマーに対して起こされたジェノサイド規定違反のハーグ国際司法裁判所(ICJ)の場で、スーチーがあらためてジェノサイドを否定したことにより、彼女の国際的名声は完全に失墜した[54][55]。
バーティル・リントナーはスーチーの微妙な立場を以下のように説明している[56]。
国軍は依然として3つの重要な省庁を掌握し、実権を握っている。何が起きているのかは、完全に彼女の手に負えない。だから彼女には誰かに命令する権限がほとんどない。国軍は、選挙で選ばれたリーダーではなく、最高司令官から命令を受けるのだ。彼女は本当に微妙なバランスを取らなければならない。もし彼女がロヒンギャの味方になったとしましょう。それは政治的自殺行為です。彼女の支持者の大半がこの件に関してどのような立場を取っているかは明らかです。もし彼女が強硬派のアラカン民族党(ANP)の支持を表明したら、西側メディアから非難されるでしょう。もし彼女が何もしなければ、彼女自身も非難されるでしょう。彼女にとってそれは極めて微妙な状況です。 — バーティル・リントナー
ただこれとは逆に、ミャンマー国内では、ロヒンギャに嫌悪感を持つ多くの国民がスーチーと国軍を支持した[57][58]。同年9月から10月にかけて国軍総司令官のミンアウンフラインが「1942年の未完の仕事をやり遂げる」という発言を繰り返すと、彼のFacebookのフォロワーが激増した[59]。「1942年の未完の仕事」とは、イギリス軍側についたロヒンギャの部隊・Vフォースの攻撃によって2万人以上のラカイン族が殺害されたことに対する復讐を意味していた[60]。ロヒンギャに対する迫害の取材で逮捕された2人のロイター記者、ワロンとチョーソーウーに対しても、国内では裏切り者扱いだった[61]。
NLDの報道官・ウィンテインは、『ガーディアン』の記者に「スーチーは、ロヒンギャに対して個人的に共感を抱いていますか?」と質問され、しばらく考えた後、こう答えたーー「いいえ」[62]
脚注
注釈
- ^ 『自由 自ら綴った祖国愛の記録』に「わたしの祖国、そしてビルマの人びと」のタイトルで収録。
- ^ 「わが国の長年にわたる武力紛争の解決策は、誰もが受け入れ可能な連邦制であることはほぼ誰もが認めている。したがって、私たちの目標は、民主主義と連邦主義に基づく民主的な連邦制である」
- ^ 実際、1996年2月17日の演説では「状況はイギリスの植民地制度による分割統治政策によって悪化した。民衆の心を掴めない政府は、『分割統治』に頼らざるを得なかった」と述べている。
- ^ 「国民的和解と平和は、私たちの連邦にとって、もっとも重要かつ最も必要なものだ」
- ^ 「私たちがそれぞれの段階でどんな困難や課題に直面しても、絶望してはなりません。もし私たちが倒れたとしても、再び立ち上がり、次の一歩を踏み出してください」
- ^ 「平和は『早い者勝ち』ではありませんが、日の出を最初に見た人のように、平和の恩恵を何よりもまず感じることができるでしょう」
- ^ 「平和を達成するという決意があれば、どんな困難や課題に直面しても、共に乗り越えることができるでしょう」
- ^ 2021年2月のクーデター後、ミンアウンフラインが住民の意向を汲んでタルンウィン橋と改名した。
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- アウンサンスーチーと少数民族との関係のページへのリンク