アウンサンスーチーとミャンマー軍との関係とは? わかりやすく解説

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アウンサンスーチーとミャンマー軍との関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/21 01:39 UTC 版)

アウンサンスーチーとミャンマー軍との関係(あうんさんすーちーとミャンマーぐんとのかんけい)について詳述する。

国軍に対する愛着

アウンサンが暗殺された際、アウンサンスーチーはわずか2歳で、当然、父親のことは何も覚えていなかった。しかし、アウンサンの死後も彼を慕っていた国軍将校たちは、スーチーの家を訪れて彼女と遊び、スーチー一家に温かく寄り添った。スーチーの子供の頃の夢は、父親の後を継いで軍人になることで、母のキンチーが設立したガールスカウトにも参加していた[1]

政界デビューとなった1988年8月26日のシュエダゴン・パゴダ演説でも、率直に国軍愛を語っている[2]

率直に申し上げます。私は軍隊に強い愛着を感じています。軍隊は父によって築き上げられただけでなく、幼少期には父の兵士たちに育てられました。同時に、国民が父に抱く深い愛情も知っています。私はこの愛情に深く感謝しています。ですから、父が築き上げた軍隊と、父を深く愛する国民との間に、いかなる分裂や争いも見たくないのです。この演壇から、軍隊の皆さんにも、このような理解と共感を示していただきたいと願っています。軍隊が国民から信頼され、頼りにされる軍隊となるよう、強く訴えます。 軍隊が、わが国の名誉 と尊厳を守る軍隊となることを願います。国民には、すでに起こったことを忘れるよう努めるべきであり、軍への愛着を失わないよう訴えたい。 — アウンサンスーチー

三度目の自宅軟禁から解放された直後の『フィナンシャル・タイムズ』のインタビューでは、「私は国軍が好きになるように育てられました」「軍服を着ている人は皆、何らかの形で父の息子だと信じるように」と答え、2012年12月1日にヒラリー・クリントンと会談した際にも、「父親の存在や、親切で愛情深い兵士たちに囲まれた幼少期を通して、自分を投獄した将軍たちとの繋がりを感じている」と述べ、「彼らとはとビジネスができる」と自信たっぷりに語っている[3]。2013年1月、BBCラジオの「デザート・アイランド・ディスクス」に出演した際には、「父は国軍の父であり、兵士は皆父の息子であり、したがって私の家族の一員だと教えられました」と答え[4]、同年3月27日に実施された国軍記念日のパレードにも参加した[5][6]

(国軍による拷問や子ども兵士、レイプなどの残虐行為を踏まえて)彼らがやったことはひどいし、私は全然好きじゃない。でも、もし誰かを愛しているのなら、その人を、そのせいではなく、それにもかかわらず愛していると思う。 — アウンサンスーチー

しかも、スーチーは国軍を愛しているだけではなく、2010年末、元駐緬ポーランド大使・イェジー・バイヤー(Jerzy Bayer)に「ミャンマー政治の『指導力(the leading force)』であり続けることを望んでいる」とも語ったのだという[7]。そのうえで、父アウンサンが望んだように「本当に名誉ある軍隊は決して政治に関わらないことを理解したプロの軍隊」であることが、スーチーの希望だった[8][9]。 このようなスーチーの国軍に対する態度は、時に他の民主化活動家の反感を買い、国民民主連盟(NLD)創設者の1人で、ジャーナリストのウィンティンは、以下のようにスーチーを批判していた[10]

スーチーはVIP囚人だ。しかし、私たちは犬小屋で過ごし、非人道的な扱いを受けた。将軍たちに対する私たちの感情や思いは、スーチーとは違う。彼女は常に彼らに理解を示し、国軍を父親の軍隊と見なしていた。しかし、私たちはそうではない...私たちの中には国軍をベンガル湾に追い込みたい人もいる。しかし、スーチーはただ、彼らをカンドージ湖(ヤンゴンにある市民憩いの場となっている湖)に追い込みたいだけだ。 — ウィンティン

「父の軍隊」にあらず

しかし、スーチーがしばし「父の軍隊」と述べた国軍は、アウンサンが率いた国軍の前身・ビルマ独立義勇軍 (BIA) - ビルマ防衛軍(BDA)- ビルマ国民軍(BNA) - ビルマ愛国軍(PBF)とは似ても似つかぬものだった。独立の英雄として名高い「30人の同志」のうち、独立後の国軍に残ったのは、ネ・ウィン、チョーゾー(Kyaw Zaw)、ボー・バラ(Bo Bala)の3人だけで、そのチョーゾーにしても1957年に失脚してビルマ共産党(CPB)に参加していた。残りのメンバーの多くも、のちに反政府運動に転じていた。ボー・ラヤウン(Bo La Yaung )とボー・タヤ(Bo Taya)は人民義勇軍(PVO)の反乱に参加し、ボー・ゼヤ(Bo Zeya)、ボー・イェトゥッ(Bo Ye Htut)、ボー・ヤンアウン(Bo Yan Aung)はCPBに参加、ボー・レッヤ英語版、ボー・ヤンナイン(Bo Yan Naing)、ボー・ムーアウン(Bo Hmu Aung)、ボー・セチャ(Bo Setkya)は、ウー・ヌ議会制民主主義党(PDP)に参加した。8888年民主化運動の際には30人の同志の生き残り11人のうち9人がネ・ウィンを糾弾し、デモへの参加を呼びかけた[11]

また、革命評議会には、ネ・ウィンが率いていた第4ビルマ・ライフル部隊出身者が多く、「第4ビルマ・ライフル部隊政権」とも呼ばれていた。革命評議会No.2だったアウンジー、ネ・ウィンの片腕だったティンペー(Tin Pe)、チョーゾー、8888年民主化運動の際に17日間だけ大統領を務めたセインルイン、1976年から1985年まで国軍総司令官、1976年から1988年まで国防相を務めたチョーティン(Kyaw Htin)、1988年にBSPPから改名した国民統一党(NUP)初代党首・ウー・タギャウ(U Tha Gyaw)、ネ・ウィンの専用コックで、強大な権力を有したラジュー(Raju)というインド人、皆、第4ビルマ・ライフル部隊出身だった[11]

国軍との共通点

アウンサンの政治利用

スーチーは事あるごとに父アウンサンを引き合いに出し、その後継者を自認していたが、かつての国軍も同様だった。

1962年に策定された『ビルマの社会主義への道』では、「民族問題」の項目でアウンサンの言葉[注釈 1]が引用されている。スーチー同様、ネ・ウィンおよび国軍も自らをアウンサンの後継者に位置づけた。つまり、アウンサンは「国軍の父」であり、ネ・ウィンは、その国軍を成熟へ導いたというわけである[12]。とりわけ国軍が活用したのは、日本統治下の1941年頃にアウンサンが執筆したとされる「ビルマのための青写真」で、この中で、アウンサンは、独立後のミャンマーが採用する政治体制として、立憲君主制[注釈 2]議会制民主制[注釈 3]を否定し、軍事ファシスト国家を選択していた[13]。これはビルマ式社会主義に依って立ち、一党独裁と経済国有化を志向する国軍にとって、非常に都合が良かった[14]

私たちが望むのは、ドイツやイタリアに代表されるような強力な国家統治である。国民は1つ、国家は1つ、政党は1つ、指導者は1人のみである。議会による反対勢力は存在せず、個人主義のナンセンスもあってはならない。すべての人は、個人よりも優位な国家に従わなければならない...行政、司法、財政において、法の支配よりも権威の支配が優先されるべきである — アウンサン
1965年発行の1チャット札

国軍はアウンサンの偶像化に努め、ども町にもアウンサン通りとアウンサン像があり、公共機関にはアウンサンの肖像画が掲げられ、紙幣英語版にはアウンサンの肖像が描かれ、イギリスの支配回復後、アウンサン一家が最初に住んだヤンゴンの家はボージョーアウンサン博物館英語版となり、アウンサンが暗殺された7月19日は殉難者の日となって、毎年、追悼式が催された。しかし、1988年以降、アウンサンの名前は国軍の宿敵スーチーを思わせるものになったため、国軍は徐々にアウンサンの存在感を薄め始め、殉難者の日の式典は簡素なものになり、代わりに3月27日の国軍記念日を大々的に祝うようになり、博物館は一般公開が中止され、荒れ果てるままにされた[15]

1990年発行の1チャット札

ちなみに、1990年に新たに発行された1チャット札は物議を醸した。この紙幣に描かれたアウンサンは、以前のものよりも目、鼻、口、そして顎の線が柔らかく、どことなくスーチーによく似ていた。そして、花弁には、8888民主化運動の際の大規模ストライキの日付、8888(1988年8月8日)が入っていたのである。民主派シンパのデザイナーの仕業だったが、これに気づいた国軍は、すぐに紙幣を発行停止にし、以後、NLD政権下の2020年まで、アウンサンが紙幣に登場することはなかった[16]

仏教の政治利用

スーチーの政治思想の中核には仏教があるが、国軍も1988年以降、自らの権力を正当化するために、仏教を利用するようになった。国軍幹部は事あるごとに僧院を訪れ、僧侶たちに車やテレビを寄贈し、その様子が国営メディアによって頻繁に報じられた。国営紙『ミャンマー・アリン』には、毎回紙面のトップに、「Nibbanasacchikiriya ca(ニルヴァーナを実現すること。これこそ吉兆への道である)」や「Virati papa(罪を断つこと。これこそ吉兆への道である)」などの仏教のスローガンが掲げられた。1991年には、僧侶に授与する称号を20種類に増やした。ミャンマーの古いジョークに、新しく購入したテレビに欠陥があると思った客が「緑と黄色しか見えない!」と叫ぶものがあるが、こ緑は国軍の軍服、黄色は僧侶の袈裟の色(実際は真紅が多いが)のことで、国軍幹部が僧侶に贈り物や称号を与えているシーンが、テレビに絶え間なく映し出されている事実を揶揄したものである[17][18]

ただ、両者とも人間は「貪欲かつ堕落した」存在と見なしているが、国軍が、これを制御するために、強力な政治権力が必要であると主張するのに対し、スーチーは、たとえ人間の本質がそのようなものでも、個人の精神力で克服可能で涅槃に至ることができると主張するという違いがあった[19]

ビルマ族中心主義

スーチーは、国軍同様、ビルマ族中心史観の持ち主で、ミャンマーとその政府に特別な地位があると主張し、外国人がミャンマーの複雑さを理解する能力を否定して、国家の独自性と文化的例外主義を強調するきらいがある。例えば、2017年3月30日のNLD政権1周年記念演説では、以下のように述べている[20]

私たちは世界中の友人から受けた支援、援助、理解に深く感謝し、その価値を認めています。しかし、私たちは自らの運命の主人でなければなりません。わが国の状況とニーズを私たち以上に理解している人はいないのです。 — アウンサンスーチー

また、2019年11月11日、ガンビアがミャンマーに対して起こしたジェノサイド規定違反のハーグ国際司法裁判所(ICJ)では、以下のように述べている[21]

残念ながら、ガンビアはミャンマー・ラカイン州の状況について、不完全かつ誤解を招くような事実関係を裁判所に提示しました...ラカイン州の状況は複雑であり、容易に理解できるものではありません。 — アウンサンスーチー

規律重視

スーチーは、民主主義を実現するためのアプローチとして、「団結・責任・規律」を重視したが、国軍のスローガンも「規律ある民主主義」だった[22]。2008年に制定されたミャンマー連邦共和国憲法でも、「真正かつ規律正しい複数政党制民主主義の発展」(第6条《4》国家の目標)、「国家は、真正かつ規律正しい複数政党制民主主義制度を実践する」(第7条)、「国家は、真正かつ規律正しい複数政党制民主主義の発展のため、政党を組織するための必 要な法律を制定しなければならない」(第39条)、「政党は、 規律ある真の複数政党制民主主義を受け入れ実践しなければならない」(第405条《1》)と何度も言及されている[23]

脚注

注釈

  1. ^ 民族というのは、利害を共有し、お互いに関連した利益を積み重ねて、長い歳月の間に、同種同族だと思うようになっている人たちを、一群にまとめて称するにすぎない。人種、信抑している宗教、話している言語等は、重視せねばならないが、本当は喜びも悲しみも分ち合い、 利害得失を共にしようとする歴史的願望の上にこそ、団結統一、愛国心が存するのである。
  2. ^ 「ビルマ人の気質は常に強力で有能な指導者を必要とし、単なる象徴的な指導者は望まない」と述べている。
  3. ^ 「議会政治は個人主義の精神を助長し、それによって個人主義的な混乱者や妨害者に行政の進行を妨害したり遅らせたりする機会を与えるため問題外」と述べている。

出典

  1. ^ Popham 2016, p. 263.
  2. ^ “Speech to a Mass Rally at the Shwedagon Pagoda” (英語). Online Burma/Myanmar Library. https://www.burmalibrary.org/en/speech-to-a-mass-rally-at-the-shwedagon-pagoda 2025年8月6日閲覧。 
  3. ^ Popham 2016, p. 96.
  4. ^ Popham 2016, p. 264.
  5. ^ Lubina 2020, p. 82.
  6. ^ Why Suu Kyi still loves Burma's army” (英語). The Independent (2013年1月26日). 2025年9月20日閲覧。
  7. ^ Lubina 2020, p. 86.
  8. ^ “Aung San Suu Kyi aims for peaceful revolution” (英語). BBC News. (2010年11月15日). https://www.bbc.com/news/world-asia-pacific-11755169 2025年9月20日閲覧。 
  9. ^ ポパム 2012, pp. 162–163.
  10. ^ U Win Tin: Myanmar’s Revolutionary Journalist” (英語). The Irrawaddy. 2025年8月20日閲覧。
  11. ^ a b Whose Army?”. The Irrawaddy. 2024年9月19日閲覧。
  12. ^ Lubina 2019, pp. 155–156.
  13. ^ Lubina 2019, p. 145-154,156-157.
  14. ^ Lubina 2019, pp. 156–157.
  15. ^ Popham 2012, p. 19.
  16. ^ ポパム 2012, pp. 206–207.
  17. ^ Lintner 2009, pp. 52–53, P59-62.
  18. ^ Hlaing 2007, p. 33.
  19. ^ Lubina 2019, pp. 82–83.
  20. ^ State Counsellor Daw Aung San Suu Kyi’s Speech on the occasion of the one Year Anniversary of the government (30 March 2017)” (英語). Myanmar Mission, Geneva. 2025年9月20日閲覧。
  21. ^ Agencies, News. “Transcript: Aung San Suu Kyi’s speech at the ICJ in full” (英語). Al Jazeera. 2025年9月20日閲覧。
  22. ^ 「軍が強くなければ……」ミャンマー国軍、鉄壁の信念はどこから:朝日新聞GLOBE+”. 朝日新聞GLOBE+ (2021年2月23日). 2025年9月20日閲覧。
  23. ^ ミャンマー連邦共和国憲法(日本語訳)”. Institute of Developing Economies. 2025年9月20日閲覧。

参考文献




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