もう1つの隼人塚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 19:15 UTC 版)
江戸時代の地誌記録『三国名勝図会』には、史跡隼人塚より約4キロメートル北東の国分重久付近にある「隼人塚」が紹介されている。 ここは、かつては鬱蒼とした森のようであったらしいが、現在は木などは全く無く水田になっておりその中に石碑が建てられている。この一帯は、養老4年(720年)の隼人の反乱の際の、隼人の戦死者や斬首死体を埋めた場所であるといわれており、首塚ともいわれている。この周辺にはその関連性を思わせるような、「真板田」(まないただ)、「猪切薮」(ししきりやぶ)といった地名も残っている。この場所の近くには、現在は日向三代の夫婦神が祀られているが、元々は隼人族の神々を祀っていたともいわれる止上神社が鎮座している。この神社では、隼人の霊魂が祟りをなし人民に害を及ぼしたため、その霊を鎮めるために「王の御幸」という祭りが慶長の中頃まで行われていた。
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