『筑後国風土記』逸文による、磐井の乱の経緯
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「磐井の乱」の記事における「『筑後国風土記』逸文による、磐井の乱の経緯」の解説
雄大迹天皇の世にあたりて、筑紫君磐井、豪強暴虐にして、皇風にしたがはず。生けりし時、預めこの墓を造る。にわかにして官軍動発りて、襲たむとする間に、勢いの勝たざるを知りて、独り豊前国上膳県に遁れて、南山の峻しき嶺の曲に終はりき。是に於いて官軍、追ひ尋ぎて跡を失ふ。士の怒り止まず、石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕とす。 (雄大迹天皇(継体天皇)の御世に当たって、筑紫君磐井が豪強暴虐にして、天皇に従わなかった。生前のうちに、あらかじめこの墓を造った。にわかに官軍が動員され襲撃した時に、勢いを見て勝てないことを悟って、独りで豊前国上膳県に遁れて、南山の険しい嶺の隅で亡くなった。ここに於いて官軍は、磐井を見失った。兵士の怒りは止まず、石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち落とした。)
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