「鉄のカーテン」の消滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 01:31 UTC 版)
「鉄のカーテン」の記事における「「鉄のカーテン」の消滅」の解説
1989年5月、改革を進めていた時のハンガリー首相ネーメト・ミクローシュにより、ハンガリー・オーストリア国境間に存在した鉄条網が撤去された。ハンガリーの西欧復帰を目指した政策の一つであったが、これが鉄のカーテンに穴をあけることになった。 この報道を西ドイツのテレビ放送によって知った東ドイツ国民は、ハンガリーを経由して西側に亡命できると思い、同国に殺到した。8月19日の汎ヨーロッパ・ピクニックを経て、9月11日にはハンガリーは東ドイツ国民の西側諸国への出国を解禁した。 そしてこれにより、東ドイツ国民が西への出国を求めてチェコスロバキア、ハンガリー、ポーランド等へ殺到、東ドイツ国内でも政府への不満と自由を求める動きからデモが頻発し、11月9日のベルリンの壁崩壊に至った。また、東欧諸国でも民主化運動(東欧革命)が勃発した。1990年10月3日には東西ドイツが統一され、これをもって「鉄のカーテン」は消滅した。 「鉄のカーテン」消滅は、ドイツを中心とした「中欧」の概念が復活・クローズアップされることにもつながった。
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