「袁紹の孫」説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 19:01 UTC 版)
『三国志』明帝紀には、明帝は景初3年(239年)に36歳で死亡したと記されており、逆算すると生年は建安9年(204年)となることを挙げ、『三国志集解』の著者盧弼は、明帝が文帝から特に冷遇されたことなども傍証に挙げた上で、明帝の実父は文帝ではなく、曹操のライバルであった袁紹の次男の袁煕ではないかと主張している。 曹操が冀州を攻め落とし、曹丕が袁煕の妻であった甄氏を略奪した時点で、のちの曹叡は袁煕の子として既に世に生を受けており、曹丕はその子を(冷遇しつつも)養子として養育した、となる。 ただし一般には[要出典]『三国志』明帝紀の享年が誤りだと解釈されており、例えば『三国志』の注釈者の裴松之は明帝の享年は34が正しいと主張している。この場合には明帝の父は文帝で問題ないことになる。
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