「衣笠城」の範囲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/28 10:11 UTC 版)
2020年(令和2年)現在、衣笠城跡と呼ばれる衣笠山には小規模な公園が整備されているが、当時を思わせる遺構はわずかに井戸、堀跡が残るのみである。しかし城山を境内とする大善寺や義明の墓所である満昌寺など、城跡周辺の寺には三浦一族や衣笠城を偲ばせる事跡が残されている。また平作川に沿って下流の久里浜までのあいだには、衣笠城の支城とされる平作城、大矢部城、小矢部城、佐原城、怒田城などの遺構が残されている。 現在衣笠城は、衣笠山一帯にあった山城と理解されているが、『玉葉』中の「鎌倉城」などのような、中世前期の史料に見える「城」の語の示す範囲について分析した齋藤慎一は、「衣笠城」の実態についても考察した。そして、当時(中世前期)の「城」とは武家が自身の屋敷や一族の墓地・寺社・庶子の屋敷などを構えて日常生活の場とした「武家の本拠地」を表す広い空間的概念であるとし、衣笠城合戦当時の「衣笠城」も山城ではなく、旧三浦氏居館群(滿昌寺や薬王寺など)や墓地(深谷やぐら群)などがある、三浦氏が本拠とした谷戸全域を示している語としている。
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