「善」の条件と「快楽」「思慮」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 04:24 UTC 版)
「ピレボス」の記事における「「善」の条件と「快楽」「思慮」」の解説
そこでソクラテスは、以前に述べた「「快楽」や「思慮」とは異なる「他の状態」が「究極の善」であるかもしれない」という切り口から議論を続けることにし、まずは「善」の条件を考察し、それが「快楽」や「思慮」に当てはまるか検討してみることにする。 ソクラテスはまず、「善」は「究極的・完結的」なものであり、人は「それ以外のものは気にもとめない」ということに同意を得つつ、「快楽」がその条件に当てはまるか検討した結果、「快楽」だけがあっても、「知性・記憶・知識・真なる思いなし」などを持っていなければ、それを「快楽」と認識すらできないのであり、それはあたかもクラゲや貝などの海洋生物のように生きるのと同じことであり、誰もそのような生き方を選んだりはしない、すなわち「快楽」は「善」ではないという結論に至る。 次に「思慮」を検討した結果、「思慮・知性・知識・記憶」などを持っていたとしても、そこに一切の「快楽」が無いならば、人はやはりそのような生き方を受け入れたりはしない、すなわち「思慮」も善ではないという結論に至る。 そして最後に、「「快楽」と「知性・思慮」を併せ持つ生活」が検討され、これは先の二つの生活よりは人々に選ばれる、すなわち「快楽」と「知性・思慮」それぞれよりも、「善」に近いものであると結論される。
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