「われ関せず」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 04:41 UTC 版)
親友で同じ慶應出身者の松永安左エ門によると、小林の性格は「腹が決まってからのことには、何事も動じない」というものだった。また、自分に直接関知しないことには無関心であったとも言われている。 1930年代、福澤諭吉が作った時事新報が経営危機に陥った際、慶應卒業生の有力者が挙って時事新報を救うために出資や負債の引き受けなどを行った。鐘紡元社長の武藤山治や松永もその一人であり、松永は小林に時事新報救済のための協力を要請したところ、小林は拒絶。松永は苦笑で済ませたものの、他の慶應OBから批判が殺到した。小林は時事新報の先行きがどう転んでも好転しないことを見通していたと言われ、先行きのない企業に投資は出来ないと言うことで拒絶したのだったが、理解する慶應OBは少なかった。その後、時事新報は1936年(昭和11年)に東京日日新聞(現在の毎日新聞)と合同した。
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