《チェロ協奏曲 ロ短調》をめぐる逸話
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「ハヌシュ・ヴィハーン」の記事における「《チェロ協奏曲 ロ短調》をめぐる逸話」の解説
ヴィハーンはドヴォルジャークにチェロ協奏曲を作曲してくれるように頼んでいたが、きまってドヴォルジャークは、チェロはオーケストラに埋没してしまうから、協奏曲はチェロの強みを発揮させるには最上の手段ではないと応じていた。ところがドヴォルジャークは、1894年から1895年にかけてニューヨークで、ヴィハーンの演奏を念頭に置いて《チェロ協奏曲ロ短調》を書き上げた。ヴィハーンは改善のために様々な指示を出し、ドヴォルジャークはそのいくつかを受け入れた。しかしながら、終楽章のカデンツァに対するヴィハーンの指示をドヴォルジャークは受け容れようとはしなかった。終楽章を重い病に臥した義姉への手向けにするとの発想と、ヴィハーンの指示とが相容れないものだったのである。1896年3月19日にロンドンで世界初演とする予定の日付も、ヴィハーンのチェコ四重奏団との契約上の義務とかち合った。議論をめぐって二人が一種の絶縁状態に陥ったとする噂話は真実ではない。ヴィハーンは《協奏曲ロ短調》を、デン・ハーグではウィレム・メンゲルベルクの指揮(一説にはドヴォルジャーク自身の指揮)によって演奏しており、ほかにもアムステルダムや、(ドヴォルジャーク自身の指揮で)ブダペストにおいても演奏している。また、同年のドヴォルジャークの《弦楽四重奏曲 ト長調》作品106の初演にも参加しているのである。なお、ヴィハーンの指示によって改訂される前の初稿譜は、「(現行版より)ずっと音楽的である」と評されていて、時どき演奏されることがある。 主要な門人に、アルトゥル・クラーサやヤン・ブリアン、ユリウス・ユネク、ルドルフ・パヴラタ、マクシミリアン・シュクフォル、ベドジフ・ヴァスカらがいる。
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