9月30日事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/11 05:12 UTC 版)
概要
クーデターを起こした国軍部隊は権力奪取に失敗しているので、正しくは「クーデター未遂事件」とするべきであるが、一般に未遂事件後のスハルト陸軍少将による首謀者・共産党勢力の掃討作戦に関連する一連の事象全体を指して「9月30日事件」と総称している。
事件の背景として、国軍と共産党の権力闘争、スカルノ大統領の経済政策の失敗にともなう国内の混乱、マレーシアとの対立により国際連合脱退まで至った、国際政治におけるインドネシアの孤立などがあった。この事件を契機として、東南アジア最大の共産党であったインドネシア共産党は壊滅し、スカルノは失脚した。
9月30日事件の詳細な経緯については、スハルト政権崩壊後の今日においても、未だ多くの謎に包まれている。以下の3つの他にも様々な陰謀説が主張されているが、いずれも推測の域を出ていない。
- インドネシア共産党と近い軍人を使って反共的な将軍らを排除しようとしたスカルノと、インドネシア共産党と親密であった中国共産党の双方が関与していたという説[1][2]。
- スカルノの排除を狙うスハルトが仕掛けたカウンター・クーデターであるという説。
- スカルノの左傾化と中華人民共和国への急接近を警戒したアメリカ合衆国の中央情報局(CIA)が背後にいたという説[3]。
いずれにしても、この事件の影響でインドネシアと中華人民共和国との外交関係が政府間のみならず民間関係も含めて悪化し、それと反比例してイギリスやアメリカなどの西側諸国との外交関係が良好なものとなっていった。なお、日本との関係は元軍人の斉藤鎮男大使以下、スカルノとスハルトとも順調に推移した数少ない国であった。
スカルノは1970年に死亡し、スハルトが2008年1月27日に死亡したため、本人の口から事の真相を聴くことは不可能となり、また事件後の「共産主義者狩り」に動員された人々の多くが被害者側からの報復を恐れて口を閉ざしていることも、事件の全貌を解明することを難しくしていると言える。しかし近年、9・30事件をテーマとした映画が制作され、インドネシアでも上映されたことをきっかけに、事件の真相究明を求める動きが広がっている[4][5]。
インドネシア国内では、その略語に黒幕とされたインドネシア共産党(Partai Komunis Indonesia)の頭文字をつけて「G30S/PKI」とも呼ばれる(この呼称がスハルト政権下で公認されていたが、後半のPKIは民主化後など時期によっては外されている)[6]。さらに、特に9月30日のクーデター未遂事件を、クーデター部隊をドイツのゲシュタポ(=恐怖政治のイメージ)にかけて「ゲスタプ(Gerakan September Tiga-puluh)」といい、翌日以降のスハルトらによる掃討作戦を「グストク(Gerakan Satu Oktober、10月1日運動)」と呼んで区別する場合もある[7]。
- ^ 西村眞悟は、この事件の最大の原因として、インドネシアに共産主義政権を樹立しようという中国共産党の意向があり、中華人民共和国の首相であった周恩来がクーデターの謀略を主導していたと主張しているが出典:西村眞悟の時事通信バックナンバー 平成17年(2005年)5月23日付。なお、ユン・チアンも著書『マオ』の中で、類似の指摘をしている。
- ^ 事件が9月30日に起きたのも、翌10月1日の中華人民共和国建国記念日で、同国首脳の周恩来がインドネシアに新たな共産党政権が樹立できたことを天下に発表できるタイミングを狙ったとされる。
- ^ CIAは9・30事件の報告書でジャカルタを「クーデターに理想的な都市」と報告しており、事件から8年後の1973年に発生したチリのアウグスト・ピノチェトによるクーデター(チリ・クーデター)を「オペレーション・ジャカルタ」と呼称している。
- ^ “インドネシア “埋もれた虐殺”語り始める”. NHK. (2015年6月10日) 2015年6月13日閲覧。
- ^ “虐殺者は、なぜ喜々として殺人を「再現」したのか? 映画「アクト・オブ・キリング」が映す人間の闇”. NewSphere. (2014年4月11日) 2015年6月13日閲覧。
- ^ Roosa, 2006.
- ^ Sulistyo, 2000.
- ^ “Transforming Taiwan-Indonesia Ties In 21st Century: New Challenges – Analysis”. Eurasian Review (2018年5月3日). 2019年7月19日閲覧。
- ^ a b c 馬場公彦 2016, p. 16
- ^ a b c 馬場公彦 2016, p. 20
- ^ 馬場公彦 2016, p. 25
- ^ a b 馬場公彦 2016, p. 17
- ^ 吉村英輝 (2016年6月2日). “毛沢東がスカルノ政権に核技術供与の意向? 研究者の論文が脚光”. 産経新聞. オリジナルの2021年2月24日時点におけるアーカイブ。
- ^ 吉村英輝 (2016年6月2日). “毛沢東がスカルノ政権に核技術供与の意向? 研究者の論文が脚光”. 産経新聞. オリジナルの2018年7月31日時点におけるアーカイブ。
- ^ 馬場公彦 2016, p. 27
- ^ 馬場公彦 2016, p. 23
- ^ 馬場公彦 2016, p. 21
- ^ 馬場公彦 2016, p. 22
- ^ 2014年アジアフォーカス・福岡国際映画祭公式サイト
- ^ “デヴィ夫人、インドネシア大虐殺の真実を暴いた米監督に感謝「真実は必ず勝つ」”. eiga.com (eiga.com). (2014年3月25日) 2014年4月27日閲覧。
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