黒木博司 事故の原因

黒木博司

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/18 23:03 UTC 版)

事故の原因

辞世の歌

1944年(昭和19年)9月6日午後6時過ぎに発生した事故の原因は、時化によって訓練用回天「一号的」が波に叩かれ、急激なダウンによって水深20mの海底の泥に突き刺さり、救助までの間に艇内の酸素がもたず、酸欠によって殉職したと思われる。

普段穏やかな瀬戸内海にもかかわらず、9月6日の瀬戸内海は波と風があり、午後になって天候が悪化した[33]。板倉や同僚の仁科の反対に対して、黒木は「天候が悪いからといって(敵は侵攻を)待ってくれないぞ」と訓練開始を主張し、同乗した樋口も訓練の開始を請願、襲撃訓練が行われた[34]。深度計5mで水中航行を試みたが、悪天候のため水深2mでの航行となった[37]。ところが訓練用回天は自動的に調整された深度5mに潜ろうとしたため前のめりとなり、不安定な状態で航行を続けた[37]。危険を感じた黒木は浮上を命じたが、波に叩かれて急激なダウンにより黒髪島沖の海底の泥に突っ込んでしまう(浮上を命じたが俯角7度、深度計18mで固着)[38]。同一コースの海上を走っていた2隻の魚雷艇は、一隻が折り返し地点で波を被って機関部に浸水して航行不能に、もう一隻は波が荒く、海底に「一号的」が突き刺さったときに出来る気泡を見つけられずに通過してしまった[35]。遭難が判明したあと、捜索隊はたびたび海底の訓練用回天の直上を通過し、艇内の黒木と樋口も気泡を出したりスパナで叩いて自己の位置を知らせた[38]。だが悪天候により、捜索隊は海底の訓練用回天を見落としてしまった[38]。艇内の二人は自力脱出を試みたが、水圧でハッチを開放できなかった[39]

黒木と樋口は翌7日朝に発見されたが、約10時間艇内に閉じこめられたことによる酸欠で死亡していた。死亡推定時刻は、9月7日午前6時頃だった[35]。艇内に残された10時間の間に、「第六潜水艇」の佐久間勉艇長にならって泰然として報告書(19-9-6 回天第1号海底突入事故報告)と遺書をしたためている[40](以下の記述は要約、原文は注釈に別記)。

事故状況

* 9月6日17時40分に出発。蛇島に向かって針路を取り、18時に180°取舵。18時10分に潜航。18時12分(推定)に浮上を行なうが突然急激に傾斜。深度計は18mを示し、海底に着底、直ちに緊急停止(当日一八時一二分、樋口大尉操縦、黒木大尉同乗ノ第一号艇、海底ニ突入セリ。直後ノ状況及所見次ノ如シ)[37]
  • 応急処置として、5分間隔に主空気を1分間排気(気泡で海上に知らせるためだが、洋上の追従艇は暗闇と風雨と高波で気付かず)[38]。電動縦舵機を停止。18時45分 - 19時25分にかけて数回主空気を排気した後、空気の排気が出来なくなる。
  • 「回天」の改善点
  1. 悪天候の浅深度高速潜航の実験が必要[注 9]
  2. 事故に備え、用便器が必要(艇内の温度を上げないため)[注 10][要説明]
  3. 同一の「回天」に2人が搭乗時は、酸素は7時間が限界。
  4. 航外灯、応急ブローが必要[41]
  • 遺書
平泉・仁科を初めとする先輩・友人などへの感謝、事故は自身の責任との記述のほか「天皇陛下万歳 大日本帝国万歳 帝国海軍万歳」[注 11]辞世の句[注 12](上図)など。
  • その後の状況(艇内に残された文書・壁書による)
9月6日19時55分、酸素の消費を抑えるために睡眠。
9月7日4時に起床[注 13]、辞世の句[注 14]。4時5分に万歳三唱[注 15]。4時45分に君が代を斉唱、この後呼吸困難になる。6時現在は2名とも生存[注 16](樋口の遺書では6時10分まで生存)[注 17] — 黒木 博司
この訓練用回天が見つかったのは午前9時過ぎだった。

  1. ^ 海軍機関学校(51期)に入ったのは岐阜県では黒木1名だったという。
  2. ^ 海機51期に相当する海軍兵学校70期には、黒木と共に殉職した樋口孝、回天特攻第一陣(菊水隊、伊37乗艦)となった上別府宣紀、神風特別攻撃隊第一号の関行男、終戦当日に宇垣纏中将と共に特攻した中津留達雄、菊水隊(仁科関夫)が乗艦した伊47航海長重本俊一等がいる[5]
  3. ^ 日露戦争の旅順港閉塞作戦に決死隊として参加、戦死して軍神と称えられた広瀬武夫少佐(戦艦朝日水雷長)のこと。
  4. ^ 黒木は海軍機関学校在学中、水雷術の教官から「最も理想とする魚雷は何か」という問いに対し、「人間が操縦すれば百発百中」と回答したという。この回答から、在学中(1938年-1941年)には既に「人間魚雷」の構想を持っていたことが推察される。
  5. ^ 人間魚雷を考案して海軍中央に開発を進言した潜水艦乗組員は複数人おり[21]、必死兵器開発構想は、黒木や仁科のだけの特異な動きではない[22]
  6. ^ (1944年6月頃、原田周三大尉に語った言葉)[24]六月「現戦局ニ対シ急務所見」各部に提出す。終に軍令部艦本賛成せり。仮称人間魚雷先鋒採用と決定せり。目下着々として準備中。戦果を求めず体当り戦法の完成を求むるのみ。日本の道ここにあり。国難打開の道ここにあるを身を以て実践せんのみ。航空方面にこの戦法の採用を希う。体当り戦闘機の計画を残して死せん。/現部隊長は国賊なり。信念なく誠意なし。職責に対してしかり。/問題は全く人にあり。決死捨身の覚悟なきにあり。その中何とかなる、最後のときはやると楽観して怠慢なるにあり。国民然り。特に中央の怠慢は国賊というの外なし。戦局今日に至りし所以、全く物にあらず人にあり。
  7. ^ (同僚の渡辺定に語った言葉)[25]自分は身を挺して回天の研究に没頭しているが唯此の兵器のみを以て厖大なる敵の物量を撃破出来ようとは夢にも考えていない。自分の狙いは此の兵器を縦横に駆使して敵に体当りする精神を重視し此の特攻精神を速かに海軍全般に徹底せしめんが為である。特に航空機関係者の覚醒を促し海空一体となって敵に殺到する以外に絶対に皇国を護持するの道なしと信ずる。
  8. ^ 楠公社の祭神は楠木正成だが、これは1944年11月8日の「回天」初出撃の部隊名「菊水隊」が、楠木正成の家紋である「菊水」に由来するためである。
  9. ^ 波浪大ナルトキ浅深度高速潜航ノ可否ハ実験ヲ要ス。確タル成績ヲ得ルマデ厳禁ヲ可ト思考ス(若干処置ヲ誤リシハ、当所ノ水深ヲ十二ト判断シ、実深ヲ知ルあたハザリシニヨル)早急ニ過酸化曹達ヲ準備スベシ
  10. ^ 事故ニ備ヘテ、用便器ノ準備ヲ要ス(特ニ筒内冷却ノ為メ)
  11. ^ 陛下ノ艇ヲ沈メたてまつリ、就中なかんずく○六ニ対シテハ、かしこクモ、陛下ノ御期待大ナリト拝聞シ奉リ居リ候際、生産思ハシカラズ、しかモ最初ノ実験者トシテ多少ノ成果ヲ得ツツモ、充分ニ後継者ニ伝フルコトヲ得ズシテ殉職スルハ、まことニ不忠申訳ナク慙愧ざんきニ耐ヘザル次第ニ候/必死必殺ニ徹スルニアラズンバ、而モ飛機ニ於テ早急ニ徹スルニアラズンバ、神州不滅モ保シ難シト存ジ奉リ候/必ズ信州こぞッテ明日ヨリ即刻体当タリ戦法ニ徹スルコトヲ確信シ神州不滅ヲ疑ハズ、よろこンデここかねテ覚悟ノ殉職ヲ致スモノニ候
  12. ^ 男子やも我が事ならず朽ちぬとも 留め置かまし大和魂
    国を思ひ死ぬに死なれぬ益荒雄ますらおが 友々よびつつ死してゆくらん
  13. ^ 〇四〇〇死ヲ決ス。心身爽快ナリ。
  14. ^ 死せんとす 益良男子ますらおのかなしみは 留め護らん 魂の空しき
  15. ^ 〇四〇五絶筆、樋口大尉ノ最後従容トシテ見事ナリ。我又同ジクセン。
  16. ^ 〇六〇〇猶二人生存ス。相約シ行ヲ共ニス。
  17. ^ 指揮官ニ報告/予定ノ如ク航走、一八・一三潜入時突如傾斜DOWN二〇度トナリ、海底ニ沈座ス。ソノ状況、推定原因、処置等ハ、同乗指導官黒木大尉ノ記セル通リナリ。事故ノタメ訓練ニ支障ヲ来シ、マコトニ申訳ナキ次第ナリ。/後輩諸君ニ 犠牲ヲ踏ミ越エテ突進セヨ/訓練中事故ヲ起シタルハ、戦場ニ散ルベキ我々ノ最モ遺憾トスルトコロナリ。シカレドモ犠牲ヲ乗リ越エテコソ、発展アリ。我々ノ失敗セシ原因ヲ探求シ、帝国ヲ護ルコノ種ノ発展ノ基ヲ得ンコトヲ。/周密ナル計画、大胆ナル実施。/〇四・三五呼吸著ク困難ナリ/生即死。〇四・四〇/国家斉唱ス。〇四・四五/〇六・〇〇猶二人生ク。行ヲ共ニセン。/万歳/〇六・一〇(以上、樋口孝)
  1. ^ 海の特攻回天 2011, p. 46.
  2. ^ 落日の日本艦隊 2014, p. 259.
  3. ^ 海の特攻回天 2011, p. 47.
  4. ^ 海の特攻回天 2011, p. 49.
  5. ^ a b 昭和16年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第746号 」 アジア歴史資料センター Ref.C13072083100  p.3中津留、p.4関、p.5重本、p.6樋口、p.9上別府、p.11黒木(補海軍機關少尉候補生)、p.27黒木(山城乗組ヲ命ス)
  6. ^ 海の特攻回天 2011, pp. 52–58平泉澄との出会い
  7. ^ 海の特攻回天 2011, pp. 57–58.
  8. ^ 海の特攻回天 2011, pp. 58–62分隊員とともに
  9. ^ 海の特攻回天 2011, pp. 60–61.
  10. ^ 昭和17年6月1日(発令6月1日付)海軍辞令公報(部内限)第872号 」 アジア歴史資料センター Ref.C13072085700  p.1黒木(補海軍機関少尉)、p.23黒木(補山城乗組)
  11. ^ 落日の日本艦隊 2014, pp. 256–261二人の軍人/イ 黒木博司少佐
  12. ^ 落日の日本艦隊 2014, p. 257.
  13. ^ 昭和17年7月15日(発令7月15日付)海軍辞令公報(部内限)第900号 p.15」 アジア歴史資料センター Ref.C13072086300 
  14. ^ 落日の日本艦隊 2014, p. 258.
  15. ^ 海の特攻回天 2011, pp. 62–67決意
  16. ^ a b 落日の日本艦隊 2014, pp. 260–261.
  17. ^ 海の特攻回天 2011, p. 67b.
  18. ^ 落日の日本艦隊 2014, pp. 267–269回天/イ 着想
  19. ^ 海の特攻回天 2011, pp. 67a-77鉄石之心
  20. ^ 落日の日本艦隊 2014, pp. 261–266二人の軍人/ロ 仁科関夫少佐
  21. ^ 落日の日本艦隊 2014, pp. 268–269.
  22. ^ 海の特攻回天 2011, pp. 70–72.
  23. ^ 落日の日本艦隊 2014, pp. 270–271.
  24. ^ 海の特攻回天 2011, pp. 74–75.
  25. ^ 海の特攻回天 2011, p. 73.
  26. ^ 落日の日本艦隊 2014, pp. 288–292連合軍の中部太平洋進攻作戦
  27. ^ 落日の日本艦隊 2014, p. 290〔トラック大空襲〕
  28. ^ 海の特攻回天 2011, p. 72.
  29. ^ 昭和19年7月19日(発令7月10日付)海軍辞令公報(部内限)第1539号 p.41」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100000 
  30. ^ 昭和19年7月18日(発令7月10日付)海軍辞令公報甲(部内限)第1538号 p.37 第六艦隊司令部附海軍大尉黒木博司補第一特別基地隊附」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100000 
  31. ^ 昭和19年7月17日(発令7月10日付)海軍辞令公報(部内限)第1537号 p.28」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100000 
  32. ^ 海の特攻回天 2011, pp. 34–37突然の悲劇
  33. ^ a b c d e 海の特攻回天 2011, p. 35.
  34. ^ a b c d e f 海の特攻回天 2011, p. 36.
  35. ^ a b c d e 海の特攻回天 2011, p. 37.
  36. ^ 海の特攻回天 2011, p. 45.
  37. ^ a b c 海の特攻回天 2011, p. 38b.
  38. ^ a b c d 海の特攻回天 2011, p. 39.
  39. ^ 海の特攻回天 2011, p. 40.
  40. ^ 海の特攻回天 2011, pp. 38a-45壮絶な最期
  41. ^ 海の特攻回天 2011, p. 41.






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