福田清人 福田清人の概要

福田清人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/12 04:11 UTC 版)

福田清人

来歴・人物

1904年(明治37年)11月29日、長崎県東彼杵郡波佐見町宿郷鹿山で、父「和一朗」(医師)と母「すい」の長男として誕生。5歳までは同町鬼木郷にあった母親の実家で育てられる。村長となった祖父、村医として開業した医師の父に連れられて、少年時代を西彼杵郡土井首村(現長崎市土井首)で過ごす。

波佐見尋常高等小学校波佐見町立中央小学校波佐見町立東小学校の前身)2年時に転出。土井首尋常高等小学校(現 長崎市立土井首小学校)2年時に転入、4年間在学[1]。旧制長崎県立大村中学校(現長崎県立大村高等学校)卒業。旧制福岡高等学校卒業。東京帝国大学文学部国文学科卒業。1929年(昭和4年)第一書房へ入社し[2]、『セルパン』編集長を務めたほか[2]、『新思潮』『文芸レビュー』の編集に参加する[2]。1933年(昭和8年)に第一短編集『河童の素』を刊行する[2]1939年(昭和14年)満州に渡り「大陸開拓文芸懇話会」を主催。

戦後は児童文学に転じ[2]1947年(昭和22年)『岬の少年たち』を出版。1950年実践女子学園短期大学教授[2]、1952年実践女子大学教授となる[2]1955年(昭和30年)浜田廣介らと日本児童文芸家協会を設立[2]。1958年3月に実践女子大学を退職したが[2]、立教大学[2]、立教女学院短期大学[2]で教鞭を執った。1962年(昭和37年)滑川道夫鳥越信らとともに日本児童文学会を設立[2]。同年、日本近代文学館を設立し、常任理事に就任。1973年、再び実践女子大学教授となり[2]、1977年3月に退職した[2]1975年(昭和50年)日本児童文芸家協会会長に就任。

1995年(平成7年)6月13日、死去。享年90。

1990年から数回に渡って、立教女学院短期大学図書館に蔵書が寄贈されたが、同短期大学が閉学したため、その蔵書は実践女子大学に継承された[2]

清水書院センチュリーブックスには、近代日本の文学者の伝記が数多く、福田ともう一人の共著・共編などの形で収められているが、ほぼ福田の立教大学での教え子に書かせ、福田が序文を書いたものである。[要出典]

受賞歴




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