福田清人
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来歴・人物
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1904年(明治37年)11月29日、長崎県東彼杵郡波佐見町宿郷鹿山で、父「和一朗」(医師)と母「すい」の長男として誕生。5歳までは同町鬼木郷にあった母親の実家で育てられる。村長となった祖父、村医として開業した医師の父に連れられて、少年時代を西彼杵郡土井首村(現長崎市土井首)で過ごす。
波佐見尋常高等小学校(波佐見町立中央小学校と波佐見町立東小学校の前身)2年時に転出。土井首尋常高等小学校(現 長崎市立土井首小学校)2年時に転入、4年間在学[1]。旧制長崎県立大村中学校(現長崎県立大村高等学校)卒業。旧制福岡高等学校卒業。東京帝国大学文学部国文学科卒業。1929年(昭和4年)第一書房へ入社し[2]、『セルパン』編集長を務めたほか[2]、『新思潮』『文芸レビュー』の編集に参加する[2]。1933年(昭和8年)に第一短編集『河童の素』を刊行する[2]。1939年(昭和14年)満州に渡り「大陸開拓文芸懇話会」を主催。
戦後は児童文学に転じ[2]、1947年(昭和22年)『岬の少年たち』を出版。1950年実践女子学園短期大学教授[2]、1952年実践女子大学教授となる[2]。1955年(昭和30年)浜田廣介らと日本児童文芸家協会を設立[2]。1958年3月に実践女子大学を退職したが[2]、立教大学[2]、立教女学院短期大学[2]で教鞭を執った。1962年(昭和37年)滑川道夫、鳥越信らとともに日本児童文学会を設立[2]。同年、日本近代文学館を設立し、常任理事に就任。1973年、再び実践女子大学教授となり[2]、1977年3月に退職した[2]。1975年(昭和50年)日本児童文芸家協会会長に就任。
1995年(平成7年)6月13日、死去。享年90。
1990年から数回に渡って、立教女学院短期大学図書館に蔵書が寄贈されたが、同短期大学が閉学したため、その蔵書は実践女子大学に継承された[2]。
清水書院センチュリーブックスには、近代日本の文学者の伝記が数多く、福田ともう一人の共著・共編などの形で収められているが、ほぼ福田の立教大学での教え子に書かせ、福田が序文を書いたものである。[要出典]
受賞歴
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- 「天平の少年 奈良の大仏建立/乱世に生きる二人」(1958年(昭和33年))- 第5回産経児童出版文化賞を受賞。
- 「春の目玉」(1963年(昭和38年))- 国際アンデルセン賞国内・優良賞を受賞。
- 「秋の目玉」(1966年(昭和41年))-第4回 野間児童文芸賞を受賞。
- 「長崎キリシタン物語」(1979年(昭和54年))- 第26回産経児童出版文化賞を受賞。
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