磯津村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/30 20:12 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動いそつむら 磯津村 | |
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廃止日 | 1955年3月31日 |
廃止理由 |
新設合併 磯津村・宮内村・川之石町・喜須来村 → 保内町 |
現在の自治体 | 八幡浜市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 |
四国地方 中国・四国地方 |
都道府県 | 愛媛県 |
郡 | 西宇和郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 |
2,171人 (1950年) |
隣接自治体 | 出海村・日土村・宮内村・伊方村 |
磯津村役場 | |
所在地 | 愛媛県西宇和郡磯津村大字磯崎 |
座標 | 北緯33度32分33秒 東経132度24分56秒 / 北緯33.54261度 東経132.41544度座標: 北緯33度32分33秒 東経132度24分56秒 / 北緯33.54261度 東経132.41544度 |
ウィキプロジェクト |
地理
現在の八幡浜市の最北部。佐田岬半島の基部北側で、北は伊予灘に面している。背後には山が迫り、南に瞽女峠を境として宮内村と接する。海岸線に沿って東は喜多郡出海村に、西は西宇和郡伊方村に接している。当村の付近は中央構造線近くの断層崖海岸が続き、平地は乏しい。磯崎(いさき)集落付近にわずかに、平地がみられ、民家や公共施設もこの付近に集中している。
- 地名の由来
- 合併時に主要集落であった磯崎(いさき)、喜木津(ききつ)から一字ずつ取って新たに命名した。
歴史
古代〜中世
藩政期
- 宇和島藩領。
- 1662年(寛文2年) - 宇和島藩と吉田藩との領地の交換により、吉田藩の領地に組み入れられた喜木津と広早とは飛び地となった。
- 1696年(元禄9年) - 当地を含む佐田岬半島の浦々は保内組に属し、川之石浦の雨井(あまい)に町場が形成された。
- 1750年(寛延3年) - 喜木津・広早騒動(農民騒動)
- 1804年(文化元年) - 二宮敬作、磯津に生まれる
明治以降
- 1889年(明治22年) - 市制・町村制実施により、磯崎、喜木津、広早(ひろはや)が合併し磯津村となる。西宇和郡に属す。
- 1890年(明治23年) - 大字磯崎に駐在設置さる。
- 1922年(大正11年) - 電灯ともる
- 1940年(昭和15年) - 県道川之石磯崎長浜線が開通
- 1955年(昭和30年)3月31日 - 宮内村、川之石町、喜須来村との合併により、保内町となる。
磯津村の系譜 (町村制実施以前の村) 磯崎 ━━━┓ (明治期) ┃ 町村制施行時 喜木津 ━━━╋━━━ 磯津村 ━━━━━━━━━━━━┓ ┃ ┃ 広早 ━━━┛ ┃ ┃ 宮内村 ━━━┫ (昭和30年3月31日) 川之石町 ━━━╋━━ 保内町 喜須来村 ━━━┛ (注記)磯津村ほかの合併まで、及び保内町の平成の合併の系譜については、それぞれの町村の記事を参照のこと。
地域
集落は、磯崎、喜木津、広早が主たる集落。大字として、磯崎、喜木津、広早があるが、いずれも明治の合併前の旧村。保内町になっても、大字として受け継がれた。
磯崎は背後の山麓で柑橘類の栽培も行なわれている。磯崎とその西隣の夢永にわずかに水田。磯崎の中心部に役場をはじめとした行政施設、教育施設などが立地している。
喜木津、広早はいずれも柑橘を中心とした農漁村。
固有名詞の分類
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