津幡町立河合谷小学校
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禁酒の碑
先述した禁酒令から15周年にあたる1941年(昭和16年)6月に禁酒の村である事を示すため、河合谷村の入り口にあたる大海川にかかる濁澄橋のたもとに禁酒の碑が建てられた。後に河合谷小学校中庭に移され、現在は河合谷ふれあいセンター前に設置されている[10]。
閉校
2007年(平成19年)冬、津幡町教育委員会は河合谷小学校の閉校を決定した。理由は児童数の減少により校舎維持経費が確保できないというもの。これに対し町は校舎存続を求め署名活動を展開、町民を遥かに上回る約2000人の署名を集め、町に対して直接要求を行った。しかし、これら存続活動は実らず、2008年(平成20年)3月23日の閉校式をもって河合谷小学校は閉校となった。
閉校となった2007年(平成19年)度時点での児童数は、男児8名・女児5名の計13名であった。校舎はしばらく解体されず、グラウンド跡地はゲートボール場などで使用されていたが、河合谷宿泊体験交流施設の建設のため、2019年(令和元年)に解体された[11]。
沿革
- 1875年5月1日 - 牛首、瓜生、上河合、下河合、大田の5村の連合により、上河合小学校として開校。
- 1889年4月1日 - (5村が合併、羽咋郡河合谷村となる)
- 1892年9月 - 高等小学校を併置。
- 1926年7月30日 - 新校舎竣工。
- 1941年4月1日 - 国民学校令に基づき河合谷国民学校と改称。
- 1947年4月1日 - 教育基本法施行、河合谷村立河合谷小学校および同河合谷中学校に分かれる。
- 1954年5月16日 - 河合谷村が津幡町に編入され、津幡町立河合谷小学校となる。
- 1971年3月31日 - 鉄筋コンクリート造りの新校舎が竣工。閉校まで使用される。
- 2008年3月23日 - 児童数減少により閉校。
所在地
- ^ a b 津幡町史、第一編第五章、警防・民生・教育の諸機関、120頁-121頁
- ^ 『官吏給与法令集』122頁 - 244頁
- ^ 内閣総理大臣の年俸は1910年制定「高等官官等俸給令 - 改正勅令第134号」による。次に内閣総理大臣の年俸が改定されたのは1931年であり、9,600円に減額されている。
- ^ 小学校本科正教員の月俸は1920年制定「小学校令施行規則中改正 - 文部省令第19号」による。次に小学校本科正教員の月俸が改定されたのは1931年であり、40円 - 160円に減額されている。
- ^ 津幡町史 第三編 722頁
- ^ 津幡町史 第四編 資料第二『旧河合谷村挙村禁酒五年の顛末』843頁-844頁
- ^ 津幡町史 第四編 資料第二 旧河合谷村挙村禁酒五年の顛末 10の「先きに廃業した酒屋の表彰」
- ^ 津幡町史 第四編資料の864頁に「日本基督教婦人矯風会本部理事からの手紙に米国のミス・ゴルドン女史に伝えられる」(現代訳)とある。他、複数の節内にて海外メディアについて言及あり。
- ^ 津幡町史 第四編資料の3『教育方面の影響』に記載
- ^ 津幡教育委員会 『津幡町のみてあるき』1992年、118頁
- ^ 河合谷宿泊体験交流施設 整備情報(令和元年度分)
固有名詞の分類
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