東プロイセン 東プロイセンの概要

東プロイセン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/08 02:07 UTC 版)

東プロイセン
Ostpreußen (ドイツ語)
1772年 - 1829年
1878年 - 1945年


(国旗) (国章)

1871年、ドイツ帝国領内、プロイセン王国の東プロイセン(赤)
首都 ケーニヒスベルク
元首等
xxxx年 - xxxx年 不明
面積
1905年36993km²
人口
1905年2025741人
変遷
第一次ポーランド分割 1773年1月31日
廃止1829年12月3日
復活1878年4月1日
ソビエト軍が占領1945年
現在 ロシア
カリーニングラード州
 ポーランド
 リトアニア
1881年の東プロイセン地図
14世紀の東プロイセン

東プロイセンは、バルト民族プルーセン人が住み、13世紀に十字軍運動によりドイツ騎士団によって征服され、ドイツ騎士団国となった。ドイツ騎士団国は1525年プロイセン公国となり、プロイセン公国は1701年に王国へ昇格した。1772年ポーランド・リトアニア共和国の分割西プロイセンすなわち王領プロイセンポーランド王国領であった)もプロイセン王国領となると、それまで飛び地だった東プロイセンは王国の残りの部分と陸続きになった。1871年ドイツ帝国が成立すると、東プロイセンもその一部となった。

第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約で、西プロイセンがポーランド領(ポーランド回廊)となると、東プロイセンは再び飛び地となった。またこのとき、メーメルが分割されてリトアニア領となっている。第二次世界大戦まではワイマール共和国プロイセン自由州北東端の地域であった[1]ナチス・ドイツが第二次世界大戦に敗れると、東プロイセンはソ連ポーランドによって分割された。ソ連領となった部分はソ連崩壊後、さらにロシアとリトアニアに分割された。

そのため、現在はポーランドロシアリトアニアに属している。


  1. ^ a b c d e f g h 木村靖二「東プロイセン」世界民族問題事典、平凡社、2002
  2. ^ 東欧史、山川出版社, 1977 p183
  3. ^ Oscar Pinkus. The War Aims and Strategies of Adolf Hitler. McFarland, 2005. P44.
  4. ^ Richard Blanke. Orphans of Versailles: The Germans in Western Poland, 1918–1939. Lexington, Kentucky, USA: University Press of Kentucky, 1993. P. 215.
  5. ^ Jan Karski. The Great Powers and Poland: From Versailles to Yalta. Rowman & Littlefield, 2014. P197.
  6. ^ http://www.dw.com/en/reconciliation-instead-of-reparation/a-1365292


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