日本の古代道路 性格

日本の古代道路

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 11:25 UTC 版)

性格

駅路は、中央と地方間の情報伝達のためのハイウェイとして位置づけられていたが、その目的だけとしては、幅員が広すぎるという問題がある。広い幅員で直線的な道路には、いくつかの性格が与えられていたと見られている。

一つは、外国の賓客に見せるためのデモンストレーションだったとする見方である。外国からの使者が特に往来する山陽道は大路とされ、他の駅路より広い道路幅を持つとともに、多くの駅馬と瓦葺きの駅家を備えていた。このように国威を外国に示すための役割も負っていたのではないかと考えられている。

しかし、全ての駅路を外国使節が通過したわけではない。そこで地域の豪族・住民らへのデモンストレーションだったとする見方もある。地域の経済力・技術力では建設し得ない規模の道路の存在が、中央政府の強大な権威を誇示する役割を担っていたとしている。

また、軍用道路としての性格を唱える見方もある。世界各地の古代道路を見ると、軍事的な性格を持つものが多く、日本の古代道路もその例外ではないとする。また、律令において、駅伝制は兵部省の所管となっており、飛鳥時代から奈良時代にかけて行われた軍事活動のために駅路などが整備された可能性もある。

古代道路は、地域計画の基準線となることもあった。各平野部での条里が駅路を基準に設定されていたり、駅路が国境となる例もあった(摂津河内和泉国境、又は筑前筑後国境)。国府国分寺などの位置関係が駅路を基準として決定されたと思われる事例も多くあった。

路線の復元

路線の復元には、史料から同定を試みる歴史学的な方法と、現在までに残る痕跡をたどる地理的考古学的な方法とがある。あるいはこれらを総合的に組み合わせて復元が行われるが、史料には不確実なものが多く、地理的に発見される例が多い。最終的には考古学的な発掘などの手段で確認を行い、直線的な平坦地形と平行する道路側溝が発見されれば、古代道路であった可能性が非常に高い。これまでの成果として、播磨国内の山陽道駅路は、地名や条里余剰帯、地割痕跡、発掘調査などからほぼ全てのルートが判明した。国分寺市からは、約 300 m にわたって 12 m 幅の道路遺構と並行する道路側溝が発掘され、古代の東山道武蔵路(とうさんどうむさしみち)だったことが分かった。しかし全国的に見れば大多数の地域で路線復元がほとんど進んでおらず、大きな研究課題として残っている。

歴史学的手法
基礎史料としては延喜式が挙げられる。延喜式には、駅路ごとの各駅名が記載されており、駅家の所在地を推定することができる。駅家は当然、駅路に沿っていたので、駅家の推定地を結ぶルートから大まかな駅路を推測することができる。その他、史書(六国史など)に駅伝制に関する記事が残されており、それを元にルートを大まかに復元することも可能である。
地理的手法
地名が、路線復元に役立つことがある。古代道路そのものに由来する可能性がある地名としては、大道(だいどう)、横大路、車路(くるまじ)、作道(つくりみち)、立石、太政官道、勅使道、仙道(せんどう)、縄手(なわて)などがある。駅家に由来する可能性がある地名には馬屋(うまや)、馬込(まごめ)などがある。これらが必ずしも古代道路の痕跡を示すものではないが、路線を復元する上で、非常に重要な手がかりの一つである。
行政の境界が古代道路の跡であることがある。古代から道路は境界とされることが多かったが、境界は一旦設定されると歴史的に変更しにくい性質を持っているため、1000年以上を経ても境界として残存するケースがある。例えば、鳥栖市小郡市付近に見られる直線的な福岡・佐賀県境は、古代西海道駅路の痕跡である。所沢市狭山市の境界を見ると、所沢側から細長く 500 m ほど突き出た箇所があるが、古代の官道東山道武蔵路の痕跡だと見られている。明治初期の市町村境界には、古代道路の痕跡が多数残存していたとも言われている。
条里地割から古代道路を推定する方法がある。条里地割は、約 109 m 四方の正方形から構成されているが、10–20 m ほどの余分が帯状に見つかることがあり、この帯状の余分が古代道路の痕跡と考えられる。帯状の余分を条里余剰帯という(あるいは道代(みちしろ)とも呼ばれる)。条里余剰帯は全国各地の平野部に見られる。
現代の地割に古代道路の痕跡が残っている場合がある。例えば、大字界・字界が断続的に数 km・数十 km にわたり直線形状となっている、地籍図に駅路幅と同じ約 12 m の幅で地割が直線的に並んでいる、旧道が断続的に直線として残っている、などが手がかりとなりうる。播磨平野の例では、溜池に残る全く意味のない 6 m 幅で直線の堤防が残っている。
考古学的手法
ソイルマーク、またはクロップマークから道路遺構の痕跡が発見されることがある。ソイルマークとは、地中に埋没している遺構の覆土がその直上の土壌に影響し、田畑の土色に変化が生じることで、遺構の形状がはっきりと識別できる現象のことである。またクロップマークは、埋没遺構の影響で作付けされた作物の生育状況(速度)に変化が生じ、同じように遺構の形状が捉えられる現象である[17]。ソイル(クロップ)マークさえ残っていない場合でも、地図では検出できない微妙な痕跡が空中写真で判明することもある。直線的な何らかの痕跡が空中写真に残っていれば、古代道路である可能性がある。鳥取県内の古代山陰道は、丘陵部を直線的に通っているが、地図上では痕跡は見られず、空中写真によりそのことが判明した。富山平野西部の空中写真からも直線的な痕跡が見つかり、発掘調査により古代道路であることが裏付けられた。九州では衛星画像により九州縦貫自動車道と平行に走る古代の直線道路が発見されている。

研究略史

従前、日本の古代道路は、細々とした小径・けもの道だと考えられてきた。1970年に古代日本史研究者の岸俊男が、上ツ道・中ツ道・下ツ道などが直線的な計画道路であったことを発表し、古代道路の研究が一気に注目を集め始めた。1970年代には、多くの研究者が古代道路の調査研究に傾注し、直線的な計画道路が全国に及ぶこと、広い幅員を持つことなどが判明していった。1980年代後半には、全国的に古代道路の発掘調査が行われ、古代道路が考古学的な裏付けを持つとともに、その実態も明らかとなっていった。1990年代には、上述の静岡市曲金北遺跡発掘調査の実例などから、古代道路が直線的で大規模な計画道路だったことは常識となり、多くの地域で、郷土史の一環として古代道路の路線復元などが試みられるなど、詳細な研究結果が発表されていった。しかし、古代道路が古代日本の社会において、いかに位置づけられ、いかに変容していったかなど、新たな研究課題も浮上してきた。


注釈

  1. ^ 現在までに発見されている日本最古の道路は三内丸山遺跡縄文時代)の幅12メートルの舗装道路である。
  2. ^ 記紀神話の記述の信憑性はともかくとしても、西国と奈良盆地を結ぶ交通手段は、まずは大和川熊野川などを利用した水運であった。この過程で河内湖に面した住吉津難波津などが開かれ、陸側の要衝として重要度を増していた。
  3. ^ 東京都国分寺市では東山道が発掘されており、その直線道路跡の道幅が12 mあったほか、群馬県では、道幅13mの道路が約10 kmにわたって直線的に続いているのが発見されている[2]

出典

  1. ^ 武部健一 2015, p. 29.
  2. ^ a b ロム・インターナショナル(編) 2005, p. 135.
  3. ^ 武部健一 2015, pp. 26–28.
  4. ^ 武部健一 2015, pp. 29–32.
  5. ^ 武部健一 2015, pp. 34–36.
  6. ^ 中村、2000年、p. 35。
  7. ^ 浅井建爾 2001, p. 84.
  8. ^ a b 浅井建爾 2001, p. 87.
  9. ^ 武部健一 2015, p. 35.
  10. ^ 近江、2012年、pp. 188–189
  11. ^ 松原、2009年、pp.44-56
  12. ^ 松原、2009年、pp.187-210
  13. ^ 今津勝紀 著「税の貢進」、館野和己・出田和久 編 編『日本古代の交通・流通・情報 1 制度と実態』吉川弘文館、2016年、82-83頁。ISBN 978-4-642-01728-2 
  14. ^ 松原、2009年、pp. 59–60,213–214
  15. ^ 武部健一『完全踏査 古代の道 -畿内・東海道・東山道・北陸道- 』 pp. 92–95
  16. ^ 静岡県埋蔵文化財調査研究所 1996
  17. ^ クロップマーク(ソイルマーク)(渋川市 Webページ)


「日本の古代道路」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「日本の古代道路」の関連用語

日本の古代道路のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



日本の古代道路のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの日本の古代道路 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS