斎藤道三 人物

斎藤道三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/05 13:39 UTC 版)

人物

史料に見る道三の来歴

斎藤道三像[注 9]

北条早雲らと並ぶ下克上大名の典型であり、名もない境遇から僧侶、油商人を経てついに戦国大名(国盗り)にまで成り上がった斎藤道三の人物像は、江戸寛永年間成立と見られる史書『美濃国諸旧記』などにより形成され、坂口安吾海音寺潮五郎司馬遼太郎らの歴史小説で有名になっていた。しかし、1965年 - 1973年に発行された『岐阜県史』編纂の過程で大きく人物像は転換した。編纂において永禄3年(1560年)7月付けの「六角承禎書写」[注 10]が発見された[12]。この文書は近江守護六角義賢(承禎)が家臣である平井氏・蒲生氏らに宛てたもので、前欠であるが次の内容を持つ。

  1. 斎藤治部(義龍)祖父の新左衛門尉は、京都妙覚寺の僧侶であった。
  2. 新左衛門尉は西村と名乗り、美濃へ来て長井弥二郎に仕えた。
  3. 新左衛門尉は次第に頭角を現し、長井の名字を称するようになった。
  4. 義龍父の左近大夫(道三)の代になると、惣領を討ち殺し、諸職を奪い取って、斎藤の名字を名乗った。
  5. 道三と義龍は義絶し、義龍は父の首を取った。

同文書の発見により、1973年4月の「斎藤道三展」の説明書で、船戸政一と清水進が、道三親子二代説を発表し[13]、翌年には松田亮が『斎藤道三文書之研究』を著して、道三の父新左衛門尉が長井豊後守利隆であるとした[14]。従来、道三一代のものと見られていた美濃の国盗りは道三一代のものではなく、その父の長井新左衛門尉(別名:法蓮房・松波庄五郎・松波庄九郎・西村勘九郎正利)との父子2代にわたるものであることが明らかとなった[15][16][17]。また父の新左衛門尉と見られる名が古文書からも検出されており、大永6年(1526年)6月付け「東大寺定使下向注文」(『筒井寛聖氏所蔵文書』所収)および大永8年2月19日付「幕府奉行人奉書案」(『秋田藩採集古文書』所収)に「長井新左衛門尉」の名が見えている。一方、道三の史料上の初出は天文2年(1533年)6月付け文書に見える「藤原規秀」であり、同年11月26日付の長井景弘・長井規秀連署状にもその名が見えるが、真偽の程は不詳である。

道三が長井規秀から斎藤利政へと改名したのは、天文7年(1538年)と考えられており、同10年(1541年)には、美濃守護代の斎藤利茂土岐頼充の家臣・斎藤彦九郎に次いで斎藤氏の中で3番目の地位に昇っていた。天文17年(1548年)2月には、道三と対立していた土岐頼香に与していた斎藤正義を殺害し、同時期に史料から姿を消す美濃守護代の斎藤利茂も殺害したとされる。また、利政から道山への改名も天文17〜18年頃である[18]

信長への遺言と息子への最後の評価

長良川の戦いで戦死する直前、信長に対して美濃を譲り渡すという遺言書を末子である斎藤利治が信長に渡したとされる記録が存在する。京都の妙覚寺大阪城天守閣に書状が存在するほか、江濃記にも記録されている。一方、道三は従来義龍を「無能」と評していたが、長良川の戦いにおける義龍の采配を見て、その評価を改め、後悔したという。道三の首は、義龍側に就いた旧臣の手で道三塚に手厚く葬られた。なお、首を討たれた際、乱戦の中で井上道勝(長井道勝)により鼻も削がれたという。


注釈

  1. ^ 木下聡著『斎藤氏四代』によると、六角義秀より偏諱を受けて秀龍と称したというが六角義秀は架空の人物であるため、秀龍と称した点も創作であると考えられる。
  2. ^ 『美濃国諸旧記』による記述だが、海音寺潮五郎の史伝『武将列伝』では、「道三は武芸ではなく智謀で出世した人であるから、この話は怪しい」として、疑問視している。
  3. ^ 『美濃国諸旧記』による。『武将感状記(砕玉話)』には町外れの草庵に住んでいた庄五郎を土岐(誰か不明)が推挙したというが、海音寺潮五郎の史伝『武将列伝』では、「日運という有力な後援者がいるのと矛盾している」として疑問視している。
  4. ^ ただし、近年では尾張国に追放されたのは次郎であって、頼芸はこの段階では美濃に留まって傀儡の守護としてその地位を保っていたとする異説もある。
  5. ^ 美濃平定後、稲葉山城の七曲百曲口に「主を斬り、婿を殺すは身の(美濃)おはり(尾張)。昔は長田、今は山城」という落書が記されたと言われる。これは源平合戦の頃、尾張の長田忠致が旧主の源義朝を謀殺したことと、道三の行状が匹敵するということを謡っている。
  6. ^ ただし、道三が鷺山城を隠居所としたという話は江戸時代の軍記物には記述があるが、信頼できる資料によって裏づけはできない。『信長公記』では親子4人で稲葉山城に居城していたという記述がある。
  7. ^ 道三と義龍との不和は、義龍が道三の実子ではなく土岐頼芸の子であったからだとする説がある。義龍は大永7年(1527年)の出生で、母の深芳野が土岐頼芸から道三に下げ渡されてから1年以内の出生のためである。
  8. ^ 土岐家自体を慕う旧臣は多く、道三は美濃平定後も常に不穏分子に悩まされ、国内統制に苦慮している。そのため、微罪の者を牛裂き釜茹での刑に処するなどの強権政治を行なっている。勝俣鎮夫は道三から義龍への家督譲渡の背景には、実はこうした残酷な道三の姿勢に不満を抱いた重臣達によって義龍を擁した政変が引き起こされて、道三はそれによって当主の座を追われたに過ぎないとする説を唱えている。
  9. ^ 『過去城州太守道三居士』と書かれている。
  10. ^ 「春日倬一郎氏所蔵文書」(後に「春日力氏所蔵文書」)、現在は「春日家文書」として滋賀県草津市に寄贈[11]
  11. ^ 実父は土岐頼芸という説があるが、これを裏付けるような史料はないため後世の創作というのが有力とされる。
  12. ^ 『勢州軍記』では稲葉良通の甥とある。
  13. ^ 『岐阜軍記』にある「斎藤系図」では長弘の子とも。
  14. ^ 『美濃国雑事記』の中の「長井系図」には長井利隆の子で斎藤道三の弟とある。
  15. ^ 横山住雄著『斎藤道三』によれば道利は長井長弘ではなく道三の一族で庶子であったため嫡男義龍に斎藤氏を、道利に長井氏を継がせたのではないかとしている。

出典

  1. ^ 寛政重修諸家譜』の井上氏の項。
  2. ^ 『寛政重修諸家譜』に収める松波家の系譜より。
  3. ^ a b 岐阜市 1980, p. 643.
  4. ^ 小和田 1996.
  5. ^ 木下聡『斎藤氏四代』(ミネルヴァ書房、2020年)27頁
  6. ^ 太田牛一 著、中川太古 訳『現代語訳 信長公記』KADOKAWA〈新人物文庫〉、2013年、77頁。 
  7. ^ a b c 宮本 1979.
  8. ^ 鈴木秀雄「忘れられている美濃戦国文化―斎藤道三の風雅―」(『郷土研究岐阜』76号、1997年)
  9. ^ 桑田 1973, p. 99.
  10. ^ a b 勝俣 1980.
  11. ^ 村井祐樹『六角定頼-武門の棟梁、天下を平定す-』ミネルヴァ書房、2019年。 
  12. ^ 『岐阜県史 史料編 古代中世四 県外古文書』1973年
  13. ^ 船戸政一・清水進「戦国の梟雄斎藤道三」1973年
  14. ^ 松田亮『斎藤道三文書之研究』1974年
  15. ^ 『岐阜県史史料編古代中世四県外古文書』1973年
  16. ^ 船戸政一・清水進「戦国の梟雄斎藤道三」1973年
  17. ^ 松田亮『斎藤道三文書之研究』1974年
  18. ^ 木下聡『斎藤氏四代:人天を守護し、仏想を伝えず』(ミネルヴァ書房、2020年)[要ページ番号]
  19. ^ a b 系図纂要』斎藤氏の項より。
  20. ^ a b 『美濃国諸家系譜』所収『斎藤道三系図』より。






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