小田原城 構造

小田原城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/06 20:33 UTC 版)

構造

平地部

近世に大久保忠世稲葉正勝によって改修された部分。現在の小田原城址公園及び、その近辺である。主要部のすべてに石垣を用いた総石垣造りの城である。佐倉城川越城などのように、土塁のみの城の多い関東地方においては特殊と言え、関東の入口としての小田原城の重要性が窺える。なお、現在のような総石垣の城になったのは寛永9年(1632年)に始められた大改修後のことである。本丸を中心に、東に二の丸および三の丸を重ね、本丸西側に屏風岩曲輪、南に小峯曲輪、北に御蔵米曲輪を設け、4方向の守りを固めていた。この他、小峯曲輪と二の丸の間に鷹部曲輪、二の丸南側にお茶壺曲輪および馬屋曲輪、二の丸北側に弁才天曲輪と、計4つの小曲輪が設けられ、馬出(うまだし)として機能した。建造物としては、本丸に天守および桝形の常磐木門、二の丸には居館、銅門、平櫓がそれぞれ設けられ、小田原城全体では、城門が13棟程、櫓が8基程建てられていたものと考えられている。江戸末期には、海岸に3基の砲台が建設されている。

明治初期に殆どの建物が取り壊されたが、本丸・二の丸・茶壺曲輪・馬屋曲輪は復元が進んでいる。鷹部曲輪には図書館・郷土文化館が置かれ、小峯曲輪は報徳二宮神社、屏風岩曲輪は遊園地となっている。御蔵米曲輪は球場となった後、一時的に駐車場となっていたが、現在復元整備中。弁財天曲輪は城址公園外の住宅地となっており旭丘高校の校地も存在する。

なお、小田原城址公園に隣接する市有地には、小田原箱根商工会議所が事務所としていた1971年(昭和46年)に建設された商工会館(地下1階、地上5階建て)があったが、周辺は弁財天曲輪や蓮池があった場所で国の史跡指定の範囲内だったことから文化庁の許可を得て建てられた[2]。しかし、旧商工会館は建て替えが難しいことから、小田原箱根商工会議所は2021年2月に小田原市本町の新事務所に移転しており、旧商工会館を市に寄贈する意向を伝えている[2]

八幡山古郭

平地部に対する詰城に当たる。小田原合戦において、北条氏政がここに陣を置いたとされる。大森氏時代からの本来の小田原城とも言われるが、異説もありはっきりしない。東から順に、東曲輪、本曲輪、西曲輪、藤原平、毒榎平と連なる連郭式の構造。本曲輪の南側に南曲輪、西曲輪の北側に鍛冶曲輪を置き、守りを固めている。現在、大半が宅地化。東曲輪は一部史跡公園となったが、本曲輪とその北側、及び南曲輪は住宅地である。西曲輪、藤原平は現在の小田原高校で、鍛冶曲輪は庭球場、毒榎平は貯水池及び城山公園となっている。往時の面影はほとんど残っていない。

総構

蓮上院 土塁

小田原城は中核部が二の丸総堀、三の丸総堀、総構堀によって三重に囲われた構造となっている。二の丸総堀は平地部及び八幡山古郭外周の堀が繋がったものである。三の丸総堀は近世城郭部の三の丸堀に加え、南側の天神山丘陵の尾根を走る空堀、そして最西端の小峰大堀切によって構成される。小峰大堀切は中世城郭部最大の遺構である。東側へと伸びる八幡山丘陵、天神山丘陵、谷津丘陵が集まる点にあり、各丘陵と西側の山地部を切断している。総構堀は上述のように小田原の町全体をとりかこんだ、連続した空堀と水堀である。山地部の空堀は小峰大堀切よりさらに西の小田原城最高所となるお鐘の台をとりこんでおり、ここから北西部の桜馬場、稲荷森の総構堀は比較的よく残る。平地部の水堀は消滅、あるいは暗渠化したが、南西部の早川口や東部の蓮上院近辺に辛うじて土塁が残る。


  1. ^ 小田原城の歴史【小田原城街歩きガイド】”. www.scn-net.ne.jp. 2019年12月31日閲覧。
  2. ^ a b 小田原城隣接の旧商工会館 市に寄贈の意向”. 神奈川新聞 (2022年9月14日). 2022年9月14日閲覧。
  3. ^ 明応5年(1496年)7月24日に出されたと推定されている長尾能景宛山内上杉顕定書状によれば、相模に攻め込んだ顕定の軍が大森式部少輔・式部大輔(扇谷上杉朝昌)・三浦道寸・伊勢新九郎(盛時)入道弟弥次郎らが籠る要害を落としたことが記されている。要害の具体的な名称は書かれていないものの文面全体の内容から小田原城である可能性が高く、しかも明応5年(1496年)の時点で大森氏と伊勢氏(北条氏)が共闘関係であったことが知られ、同年以前に両氏が城(小田原城)を奪い合う敵対関係になかったのは確実とみられている(佐藤博信「大森氏とその時代」『中世東国足利・北条氏の研究』岩田書院、2006年、P154-P157(原論文は『小田原市史』通史編原史・古代・中世(1998年)に所収))。
  4. ^ 佐藤博信は盛時が伊豆山権現から小田原城下の所領を没収した文亀元年(1501年)には既に盛時が小田原城を支配していたとして、城主の交替を1496年-1501年の間と推定する(前掲佐藤論文、2006年、P157-159)。
  5. ^ 前掲佐藤論文P169。
  6. ^ 『東国の戦国合戦』市村高男(吉川弘文館)P156、『関東戦国史(全)』千野原靖方(崙書房出版)P137、『北条氏康と東国の戦国世界』山口博(夢工房)P91、『武田信玄』平山優(吉川弘文館)P47
  7. ^ 「火牛の計」は津波? 小田原城奪取に新説/神奈川 カナロコ 2013年7月25日
  8. ^ 池上裕子「戦国期における相駿関係の推移と西側国境問題」(初出:『小田原市郷土文化館研究報告』27号(1991年)/所収:黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第二三巻 北条氏康』(戒光祥出版、2018年)ISBN 978-4-86403-285-8
  9. ^ 佐々木健策「相模府中小田原の構造」(所収:浅野晴樹・齋藤慎一 編『中世東国の世界 3後北条氏』(2008年、高志書店)ISBN 978-4-86215-042-4
  10. ^ a b 小田原写真館 小田原城天守閣再建”. 小田原市. 2018年1月22日閲覧。
  11. ^ 昭和の子供遊園地
  12. ^ 「小田原城址の 150 年 モダン・オダワラ・キャッスル 1868-2017」
  13. ^ 復興天守閣の施工は松井建設
  14. ^ 小田原で「みんなでお城をつくる会」設立-市民の手でつくる木造天守閣
  15. ^ 【平成25年終了】御用米曲輪発掘調査の新発見!(2月16日(土)見学会開催)
  16. ^ 小田原城天守閣が2015年7月から耐震工事で休館へ
  17. ^ 小田原城天守閣耐震改修等検討委員会
  18. ^ 小田原城:天守閣耐震改修、本格スタート 外壁に足場 /神奈川
  19. ^ 小田原城がリニューアル 初日入館料は熊本城修復に
  20. ^ テレ東「池の水」ついに38年ぶり小田原城の水抜き”. 株式会社スポーツニッポン新聞社. スポーツニッポン (2018年3月10日). 2018年3月10日閲覧。
  21. ^ 緊急SOS!池の水ぜんぶ抜く大作戦 〜日本三大“池”だ!小田原城&善光寺&日比谷公園〜|池の水ぜんぶ抜く”. テレビ東京. 2018年4月24日閲覧。
  22. ^ 三の丸地区で「謎の堀」が二つ発見 江戸古地図に未記載 毎日新聞 2012年1月25日
  23. ^ 小田原城で謎の堀見つかる、場内の「縄張り」解明する手掛かりか/小田原 カナロコ 2012年1月26日
  24. ^ 史跡小田原城跡八幡山古廓・総構保存管理計画策定報告書(小田原市教育委員会、2010)、p.20






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