円谷英俊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 21:14 UTC 版)
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読売ジャイアンツ時代 | |
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 神奈川県横浜市磯子区 |
生年月日 | 1984年9月17日(37歳) |
身長 体重 |
181 cm 78 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 内野手 |
プロ入り | 2006年 大学生・社会人ドラフト4巡目 |
初出場 | 2008年4月15日 |
最終出場 | 2011年7月17日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
コーチ歴 | |
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この表について
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経歴
プロ入り前
洋光台第一小1の時から「洋光台キングタイガース」で投手、内野手として野球を始める。中学時代は中本牧リトルシニアに所属。
横浜高等学校では1年春からベンチ入りし、1年秋からレギュラー。2年夏に第83回全国高等学校野球選手権大会に出場した。
青山学院大学では1年春からベンチ入り。3年春に首位打者、3年春秋はベストナインを獲得。4年で大学全日本に選出。東都大学リーグ通算86試合出場、303打数87安打、打率.287、6本塁打、37打点。ベストナイン2回受賞。1年時に東都大学野球一部秋季リーグで優勝、3年春季から4年春季まで大﨑雄太朗、高市俊、横川史学、小窪哲也などとともにリーグ戦3連覇を達成し、戦国東都と言われる東都大学野球一部リーグで計4度の優勝を経験。2005年第54回全日本大学野球選手権優勝、2006年第55回全日本大学野球選手権準優勝という成績を残した。 2006年の大学・社会人ドラフト4巡目で巨人に指名され入団。同年のドラフトでは円谷のほか、横川史学、大﨑雄太朗、高市俊も指名を受け、青山学院大学硬式野球部から同時に4名が指名されたのは10年ぶり2回目であった。後に2008年に楠城祐介が指名され青学大同級生5人がプロ野球選手となった。「友達・相棒」として、またゲンかつぎの意味も込め、大学3年時に知人から貰ったスヌーピーの縫いぐるみを同伴して入寮し話題となった。
プロ入り後
2007年、春季キャンプでは一軍スタート。3月29日、千葉ロッテマリーンズ二軍とのイースタン・リーグ公式戦において大嶺祐太から、チームシーズン第1号となる初本塁打を放つ。三塁手としてほぼフル出場、打率.241、2本塁打を記録した。
2008年、シーズン初頭に初めて一軍に昇格したが、数日で二軍に戻る。二軍でも控えに回る不安定な立場となる。一時打率も2割前後と低迷。最終的には打率.262、2本塁打と昨季の二軍での成績を上回った。
2009年、初の開幕一軍入りも出場機会がないまま二軍降格。二軍でも打率2割台前半と低迷したが、一軍の二塁手、左打者不足で8月に一軍昇格。8月18日、プロ初安打となる本塁打を放ち、お立ち台も経験することとなった。同年4月に1歳年下の女性と結婚した。
2011年、一軍の怪我人続出により一軍昇格し、5月17日にロムロ・サンチェスから勝ち越し打を放つも、目立った活躍はこれだけで二軍落ち、8月に肩を痛めて治療を余儀なくされる。以降は二軍では山本和作や福元淳史が優先起用され出番は少なく、オフに肩の完治を目指し育成選手として再契約することになった。
2012年10月2日、球団から来季の契約を結ばないことが発表された[1]。
引退後
引退後は2013年から2015年までの3年間ジャイアンツアカデミーのアシスタントコーチに就任した[2]。
2015年10月29日、2016年から巨人に新設される三軍の内野守備走塁コーチに就任することが発表された[3]。4年ぶりの現場復帰。
2018年は三軍内野総合コーチを務めたが、同シーズンをもって退任、2019年からはジャイアンツのスカウトに就任する。
選手としての特徴・人物
円谷という苗字から、登場曲にザ・サーフコースターズの「ウルトラQのテーマ」を使用していた。
- ^ “朝井投手ら10選手に戦力外通告”. 読売ジャイアンツ公式ホームページ. (2012年10月2日) 2012年10月2日閲覧。
- ^ スタッフ紹介 - ジャイアンツアカデミー
- ^ 来季の三軍コーチングスタッフについて - 読売巨人軍公式サイト(2015年10月29日)
固有名詞の分類
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