ローマ美術 ローマ美術の概要

ローマ美術

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/29 17:33 UTC 版)

ポンペイフレスコ画

建築

パンテオン内部

ローマ美術が最も偉大な革新を行ったのは建築の分野である。ローマ帝国は広大な領域に拡がり、多くの都市をその支配下に置いたこともあり、コンクリートの使用を含めた大規模な都市建設の方法を発展させた。パンテオンコロッセウムのような巨大な建築物は従来の素材や方法では決して建設し得ないものであった。コンクリートは彼らの時代より約千年前に近東で発明されていたがローマ人はその強度と経済性を生かして城塞建設だけでなく彼等の最も偉大な建物やモニュメントの建設にこの素材の用途を拡大した[1]。コンクリート造の建物は富と権力を誇示するために石膏、レンガ、石、大理石で化粧され、多彩色の装飾が施されたり金めっきの施された彫刻で飾られることが多かった[1]。 コンクリートの技術によるローマ建築の堅牢さは伝説的でさえある。多くの建物が現存し、未だに使われているものさえある。その多くはキリスト教の時代から教会として使用されている。もっとも、多くの遺構ではコンスタンティヌスのバシリカのように大理石の化粧板が剥げてコンクリートが剥き出しになり当時よりも大きさも壮大さも減じてしまってはいるが[2]。 共和制期、ローマ建築はギリシアとエトルリアの要素を融合し円形の寺院やアーチなどを発案した[3]。帝政初期にローマの国力が高まると初期の皇帝たちはパラティーノの丘とその近郊に大規模な宮殿を造営するために区域のスラム街の破壊を開始した。このような再開発のためには大きなスケールでのデザインと工学的手法の発達を必要とした。そしてフォルムとして知られる商業、政治、宗教、社会活動のための複合施設が建設された。ユリウス・カエサルは古くからあったフォロ・ロマーノを整備し、フォロ・ジュリアーノを建設した。後の皇帝によってさらに幾つかのフォルムが建設された。古代ローマで最もすばらしい円形競技場コロッセオはフォロ・ロマーノの東端に80年頃に完成した。コロッセオは50,000人を収容でき、日除けのために布を張る設備があった。そこでは剣闘士の闘いや模擬海戦のような見世物を行うことができた。このローマ建築の傑作はローマの工学技術の高さを示すと共に三つの建築オーダー(ドーリア式イオニア式コリント式)を取り入れている[4]。コロッセオほど有名ではないがローマ市民同じくらい重要なのが五階建てのインスラ(insula)と呼ばれる街区である。そこはローマ人の集合住宅で何万人もの市民が住んでいた[5]

セゴビアの水道橋

ローマ帝国の領土が最大となり、ローマの美術がその栄光の絶頂にあったのはトラヤヌス帝(在位:98-117年)からハドリアヌス帝(在位:117-138年)の治世にかけてであった。その栄光はモニュメント、集会場、庭園、水道橋、浴場、宮殿、パビリオン、サルコファガス、神殿などの大規模な建築プログラムによるものだった[6]。アーチ、コンクリート、ドームなどの建築技術の使用によりヴォールト天井の建築が可能となり、そのことが宮殿や公共浴場バシリカを含む帝国の黄金時代を飾る公共建築を可能とした。パンテオン、ディオクレティアヌス浴場、カラカラ浴場はドーム建築の優れた例である。パンテオン(万神殿)は天井中央に「目」あしらった開口部を持つ古代世界の最もよく保存された神殿である。天井の高さは建物の内部の直径と同じで、巨大な球を入れる入れ物のような形になっている[2]。これらの偉大な建物はブルネレスキのようなイタリアルネサンスの建築家たちのインスピレーションのもととなった。偉大な建築プロジェクトがローマで実行されたのはコンスタンティヌス帝(在位:306-337年)の時代が最後だった。コロッセオの近くに建設されたコンスタンティヌスの凱旋門には様式を混在させた折衷の効果を出すために近くのフォルムから加工済の石をリサイクルしている[7]ローマ水道もまたアーチを利用していて、帝国内のあちこちに建設された。大きな都市区域では不可欠な水の供給設備だった。これらの水道の崩れることなく建っている石造の遺跡は特に印象的である。3層のアーチで構成されているポン・デュ・ガール(ニームの水道橋)、セゴビアの水道橋(en)などはローマ建築の設計と建築技術の質の高さを物語っている[4]。古代ローマの建築はビザンティン建築イスラム建築など後世に大きな影響を遺した。

彫刻

ポンペイのドリフォロス

肖像彫刻が発達した。現実の人間や事件をテーマにして造形芸術で表現するという習慣は、多くの個性的な肖像彫刻や、トラヤヌス円柱浮彫などの壮大な叙事作品を遺した。これは、戦勝祝を神話で比喩的に表現するギリシアの習慣とは異なる、ローマ美術の特色である。

一方、ウェヌスメルクリウスなどの神像としては、ギリシア彫刻の模刻が大量に制作された。今日、ギリシア時代の巨匠の原作は殆ど消失しているので、ローマ時代の模刻(ローマンコピー)を通してのみ作風を知ることができる。ルネサンス以来の西欧におけるギリシア彫刻のイメージは、ローマ人のフィルターを通しているのである。そのギリシア彫刻の影響を受け、ローマ美術の代表作としてしばしば挙げられるのがプリマポルタのアウグストゥスである。作られた年代はアウグストゥスが権力を確立した紀元前27年以降と考えられており、それ以前のタイプがヘレニズム美術の影響が強かったのに対し、このプリマポルタのアウグストゥスが代表するタイプは古典ギリシアの理想主義的な要素が強調されている。


  1. ^ a b Janson, p. 160
  2. ^ a b Janson, p. 165
  3. ^ Janson, p. 159
  4. ^ a b Janson, p. 162
  5. ^ Janson, p. 167
  6. ^ Piper, p. 256
  7. ^ Piper, p. 260
  8. ^ Piper, p. 252
  9. ^ a b c Janson, p. 190
  10. ^ a b c Piper, p. 253
  11. ^ Janson, p. 191
  12. ^ プラトン クリティアス (107b-107c)のW. R. M. Lamb による英訳(1925年)at the Perseus Project(2009年4月28日閲覧)の本記事翻訳者による和訳。
  13. ^ Janson, p. 192
  14. ^ John Hope-Hennessy, The Portrait in the Renaissance, Bollingen Foundation, New York, 1966, pp. 71-72
  15. ^ Janson, p. 194
  16. ^ Janson, p. 195
  17. ^ Pliny, Natural History online at the Perseus Project
  18. ^ ヨセフス『ユダヤ戦記』7巻、143-152(5章5節)のWilliam Whistonによる英訳Online(2009年4月28日閲覧)の本記事翻訳者による和訳。


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