ライスボートの戦い ライスボートの戦いの概要

ライスボートの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/31 04:37 UTC 版)

ライスボートの戦い
Battle of the Rice Boats

サバンナ地域を示す1796年の地図、ハッチンソン島はサバンナ市(図の中央)に近いサバンナ川(左上から右中に流れる)の中にある
戦争アメリカ独立戦争
年月日1776年3月2日 - 3日
場所:現在のジョージア州サバンナ市近く、サバンナ川
結果:戦術的にはイギリス軍の勝利、戦略的には植民地軍の勝利
交戦勢力
ジョージア植民地およびサウスカロライナ植民地愛国者民兵隊  グレートブリテン イギリス
指導者・指揮官
ラクラン・マッキントッシュ アンドリュー・バークレイ
ジェイムズ・グラント
戦力
陸上:民兵800、大砲3門、海岸砲1門
海上:補給船
陸上:歩兵250-300
海上:マン・オブ・ウォー4隻、輸送艦2隻[1]
損害
負傷1名、補給船1隻沈没、3隻が捕獲された 人的損失は不明、マン・オブ・ウォー2隻が損傷、補給艦3隻が沈没
アメリカ独立戦争

1775年12月、北アメリカイギリス軍マサチューセッツ湾植民地ボストン包囲されていた。イギリス軍に補給する食料が必要になったので、イギリス海軍がジョージアに派遣されてコメなどの物資を購入しようとした。この艦隊がジョージアに到着すると、ジョージア植民地政府を支配し、総督のジェイムズ・ライトを拘束していた植民地反乱者達は、サバンナの港に停泊していた補給船をイギリス軍が捕獲し、移動させることに抵抗した。補給船の幾隻かは捕獲を免れるために燃やされ、幾隻かは取り戻したが、大半はイギリス軍が確保した。

ライト総督は拘禁されていた場所から逃げ出し、艦隊の1隻に逃れることができた。ライトがジョージアを離れたことで、ジョージアに対するイギリスの支配は終わったが、2年後の1778年、イギリス軍がサバンナ市を再占領することで簡単に取り戻すことになった。ライトは再度1779年から1782年までジョージアを統治したが、その後アメリカ独立戦争が終戦を迎える中でイギリス軍は撤退した。


  1. ^ a b c Russell, p. 74
  2. ^ Jones, pp. 194–210
  3. ^ Jones, p. 180
  4. ^ Johnson, p. 129
  5. ^ a b Johnson, p. 128
  6. ^ Russell, p. 73
  7. ^ Jones, p. 212
  8. ^ Jones, pp. 215–217
  9. ^ Jones, p. 188
  10. ^ a b c Russell, p. 75
  11. ^ Jones, pp. 225–226
  12. ^ Jones, pp. 221–223
  13. ^ a b Jones, p. 227
  14. ^ Jones, p. 228
  15. ^ Clark, vol 4, pp. 279,494
  16. ^ Clark, vol 4, p. 444
  17. ^ Clark, vol 4, p. 327
  18. ^ Jones, p. 229
  19. ^ Clark, vol 4, p. 602
  20. ^ Clark, vol 4, pp. 815,1114
  21. ^ Clark, vol 5, p. 118
  22. ^ Cashin


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