ユトランド沖海戦 交戦

ユトランド沖海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/27 03:55 UTC 版)

交戦

前哨戦

巡洋戦艦の行動 (1) 15:31, (2) 15:48, (3) 16:06, (4) 16:42, (5) 16:47, (6) 17:30

ジェリコーの「大艦隊」主力は5月30日21時30分、スカパ・フローから出撃を始め、スカゲラク海峡の西90マイルの会合点を目指した。その頃シェアの大洋艦隊はまだヤーデ湾の掃海水路をゆっくり進んでいた。偵察任務をおびていたドイツ潜水艦艦隊は有効な働きができず、イギリスの艦隊・部隊は無傷で戦場へ達した。

5月31日正午ごろ先行するビーティーの部隊は偵察予定海面に達したが霧で見通しが悪かった。敵は見当たらず、予定通りジェリコーの艦隊と合流すべく14時に北へ変針した。その直後、第1軽巡洋艦戦隊(司令;アレクザンダー・シンクレア代将)は、東方に国籍不明船を発見した[12]。この船は中立国デンマークの貨物船だったが、偶然にも時を同じくして、その50海里東方を北進していたヒッパーの巡洋戦艦部隊(偵察部隊)もこの船を発見し、調査のため第2偵察群(司令:ベディッカー少将)の軽巡洋艦エルビンクが向かい、両国の艦は互いに接近していき視界に入った。

14時18分、第1軽巡洋艦戦隊旗艦ガラティアが敵発見を本隊へ打電し、これに対するエルビンクも同様に打電し、ユトランド海戦の幕が上がった[12]。最初の発砲はガラティアが行った。ガラティアはその後、エルビングから大遠距離の砲撃を受け被弾したが、不発弾だった。

ビーティーは北東に、ヒッパーは北西に針路をとり、互いに増速して接近した。しかしビーティーの部隊に編入されたばかりの第5戦艦戦隊(司令:ヒュー・エヴァン=トーマス英語版少将)は進路変更の信号を見落とし大きく遅れた。ヒッパーの巡洋戦艦部隊は作戦にしたがって針路を南東へ反転した。

15時25分、ビーティーはヒッパーの巡洋戦艦部隊を発見した(地図の1)。15時48分、ヒッパーは砲撃開始を指示、その1分後にビーティーの部隊も砲門を開いた[12](地図の2)。こうして「南走(Run to the South)」として知られる巡洋戦艦部隊同士の戦闘が始まった。

英独巡洋戦艦部隊の戦力

イギリス(排水量計:145,640トン)

  1. 旗艦・巡洋戦艦 ライオン(13.5インチ砲8門、26,250トン)
  2. 巡洋戦艦 プリンセス・ロイヤル(13.5インチ砲8門、26,250トン)
  3. 巡洋戦艦 クイーン・メリー(13.5インチ砲8門、26,770トン)
  4. 巡洋戦艦 タイガー(13.5インチ砲8門、28,800トン)
  5. 巡洋戦艦 ニュージーランド(12インチ砲8門、19,100トン)
  6. 巡洋戦艦 インディファティガブル(12インチ砲8門、18,470トン)

ドイツ(排水量計:122,235トン)

  1. 旗艦・巡洋戦艦 リュッツオウ(12インチ砲8門、26,741トン)
  2. 巡洋戦艦 デアフリンガー(12インチ砲8門、26,600トン)
  3. 巡洋戦艦 ザイドリッツ(11インチ砲10門、24,594トン)
  4. 巡洋戦艦 モルトケ(11インチ砲10門、25,000トン)
  5. 巡洋戦艦 フォン・デア・タン(11インチ砲8門、19,300トン)

「南走(Run to the South)」

ビーティー提督

ビーティーは並航戦を指示し南東へ変針した。しかし、風は西風でビーティーの部隊は自分たちの排煙と砲煙に射線を妨げられる不利を負わされていた。

これに対するヒッパーの部隊は夕陽を背にくっきり浮かび上がる英艦艇に正確に命中弾を与え、防御力の劣るイギリス艦隊に損害を与えた[13]モルトケは2隻のイギリス巡洋戦艦の攻撃の標的となりながらも、僅か数分の間にイギリス巡洋戦艦タイガーに7-8発の命中弾を与え、船体中央部に損害を与え煙突を吹き飛ばした。デアフリンガーは交戦から外れたまま、妨害されることなく自由に砲撃できプリンセス・ロイヤルに多数の命中弾を与え前部砲塔などに損害を与えた[13]

互いの巡洋戦艦部隊から報告を受けたジェリコーとシェアはそれぞれ戦場へ急行。ジェリコーは本隊に所属する第3巡洋戦艦戦隊(司令:ホレース・フッド少将)を分派して先行させた[12]

リュッツオウの砲弾が命中し、炎上する旗艦ライオン。

16時、ビーティーの旗艦ライオンにリュッツオウの12インチ砲の斉射弾が命中し、Q砲塔を大破させ、数十人の乗員が即死した。同砲塔指揮官のフランシス・ハーヴェイ英語版海兵隊少佐も致命傷を負ったが、絶命する前に「弾火薬庫への扉の閉鎖」「弾火薬庫への注水」を命じて弾火薬庫の誘爆を防ぎ、ライオンを爆沈の危機から救った[13][注釈 2]

16時05分、フォン・デア・タンの11インチ砲による概ね最大射程からの斉射弾がインディファティガブルの主砲塔天蓋を貫徹して弾火薬庫を誘爆させ、インディファティガブルは轟沈した[13]。インディファティガブルの乗組員1,019名は、救助された2名を除く全員が戦死した。(地図の3)

ヒッパーの部隊も無傷ではなかった。クイーン・メリーの射撃によりザイドリッツも砲塔を撃ち抜かれた[13]。しかしドッガー・バンク海戦以降の防御力向上の効果で大損害とはならなかった[13]

運はヒッパーに傾いていたが、そう長く続かなかった。16時06分、15インチ砲を装備し高速のクイーン・エリザベス級戦艦4隻から成る第5戦艦戦隊が追いつき、距離17,500mから砲撃を開始して参戦した[13]。ヒッパーの巡洋戦艦部隊は劣勢に転じたが、シェア率いる大洋艦隊本隊がすぐ近くまで接近しつつあることを知ったヒッパーは敵をより引き込むため東へ変針した[13]

轟沈する巡洋戦艦クイーン・メリー

巡洋戦艦同士の戦闘は激しさを増した。16時25分、クイーン・メリーは、デアフリンガーの砲撃によって主砲塔天蓋を貫徹され、弾火薬庫が誘爆して轟沈した[13]クイーン・メリーの乗組員1,275名のうち、生き残ったのはわずか9名だけだった。戦死者の中には観戦武官としてクイーン・メリーに乗艦していた日本海軍の下村忠助中佐も含まれている。

インディファティガブルとクイーン・メリーの轟沈を見たビーティーは「我々の呪われたフネは、今日は何かがおかしいようだ」[注釈 3]There seems to be something wrong with our bloody ships today.[15])と旗艦ライオンアーヌル・チャットフィールド英語版艦長に語った。ドイツ巡洋戦艦隊と砲撃戦を行った場合に劣勢となる危険性を認識不足だったためとされる。

死闘

16時30分頃、ビーティー指揮下の第2軽巡洋艦戦隊(司令:ウィリアム・グットイナフ代将)の軽巡洋艦サザンプトンがシェアの大洋艦隊本隊を発見した。さらに、この部隊の戦力を詳細に報告するため多数の艦艇から放たれる砲弾を回避しながら接近。敵主力が弩級戦艦16隻と旧式戦艦6隻であることが判明した。「大艦隊」の駆逐艦部隊もヒッパーの巡洋戦艦部隊に立ち向かい、ザイドリッツに向けて魚雷を発射した。ビンガム艦長指揮するイギリスの駆逐艦ネスターはドイツの水雷艇V-27、V-29を撃沈したが、その後ネスターと駆逐艦ノマドはシェアの本隊が通過するときに命中弾を受け、放棄された。

ビーティーは眼前の敵をジェリコーの「大艦隊」に引き込むために反転し北上を決め(地図の4)、旗下の部隊に速やかに反転するよう指示を出した。しかし第5戦艦戦隊はエヴァン=トーマスが「一斉回頭」ではなく「逐次回頭」の命令を出したため、回頭中にドイツ艦隊に距離を詰められ、一時、第5戦艦戦隊は、単独でヒッパーの巡洋戦艦部隊と大洋艦隊本隊と渡り合わなければならなかった。第5戦艦戦隊の戦艦マレーヤは被害を受け続けたが、艦長が回頭の決断を速やかに下したので損害はいくぶん軽減された。さらにマレーヤの15インチ砲はドイツ艦に有効打を与え続け、ザイドリッツは20発近い命中弾と魚雷1発を受けてそれまでの損害を含めて5基の主砲塔が全て使用不能となり、リュッツオウとデアフリンガーも被弾した[16]

ジェリコーは全面的な接触が近いことを認識したが、ドイツ艦隊の位置と針路に関する情報が不十分であった。ジェリコーは戦闘に向けて第1巡洋艦戦隊(司令:ロバート・アーバスノット英語版少将)に陣形の前方を警戒させ、先行する第3巡洋戦艦戦隊に速度を上げてビーティーを掩護するよう指示した。

17時30分頃、第1巡洋艦戦隊の装甲巡洋艦ブラック・プリンスは、ビーティー指揮下の第3軽巡洋艦戦隊を見つけた。しかし、同時に第3巡洋戦艦戦隊と連絡行動中の軽巡洋艦チェスターが偵察部隊第2偵察群に阻止され猛攻撃を受けた。第3巡洋戦艦戦隊が救援に向かうが到着前にチェスターは大きな被害を負った。

第3巡洋戦艦戦隊旗艦インヴィンシブルは軽巡洋艦ヴィースバーデンを攻撃、これを航行不能にさせ第2偵察群所属の他の艦はフッドが北と東の方向からイギリス主力艦を誘導していると勘違いしたので、ヒッパーとシェアの艦隊がいる方向に逃走した。ヴィースバーデンはこの後もイギリスの駆逐艦などの攻撃を受け6月1日午前2時45分頃に沈没した。生存者は1名のみだった。


注釈

  1. ^ 海事における「マイル」は例外なく Nautical Mile(「浬」または「海里」。現在は1852メートル)であり、一般の Mile(現在は1609.344 メートル)ではない。
  2. ^ ライオン」を救った武功により、フランシス・ハーヴェイ英語版海兵隊少佐ヴィクトリア十字章を追贈された[14]
  3. ^ a b 引用者による和訳。

出典

  1. ^ 著名な軍事史家リデル・ハートは、『第一次世界大戦』で「史上この戦闘ほどインクを費やさせた戦闘はない」と評した。
  2. ^ イギリスとは異なりドイツ海軍の巡洋戦艦は敵巡洋戦艦と戦う設計思想の下で建造された。
  3. ^ 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』p.117
  4. ^ 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』p.118-119
  5. ^ イギリスは、バルト海で撃沈したドイツ巡洋艦から暗号を入手していた。
  6. ^ 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』p.119
  7. ^ 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』p.120
  8. ^ a b 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』p.121
  9. ^ a b 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻前巻『ユトランド沖海戦』p.122
  10. ^ 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』p.122-123
  11. ^ 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』p.119-120
  12. ^ a b c d 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』p.123
  13. ^ a b c d e f g h i 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』p.124
  14. ^ Major Francis Harvey VC”. 帝国戦争博物館. 2023年4月18日閲覧。
  15. ^ a b There's 'something wrong with our bloody ships today'”. ザ・ヒル (2021年7月28日). 2022年2月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月28日閲覧。
  16. ^ a b 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』p.125
  17. ^ a b c d e f g h i 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』pp.125-126
  18. ^ a b c d e f g h i j 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』p.126
  19. ^ a b c 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』p.127
  20. ^ a b 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』p.128
  21. ^ a b 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』p.129
  22. ^ 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』p.130
  23. ^ 歴史群像アーカイブス20「第一次世界大戦」前巻『ユトランド沖海戦』
  24. ^ 世界の艦船 2016年6月号 通巻838号






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