メキシコの歴史 独立とカウディージョ時代(1821年-1861年)

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メキシコの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/29 20:25 UTC 版)

独立とカウディージョ時代(1821年-1861年)

1821年9月27日イトゥルビデとゲレーロの入城

1821年9月27日アグスティン・デ・イトゥルビデ将軍がメヒコ市に入城し独立を宣言した。イトゥルビデはカトリック信徒の保護と財産の保護、人種的平等を謳った。当初はスペインのフェルナンド7世が国王に迎え入れられる予定だったが、フェルナンド7世が拒否したために翌年5月には自らメキシコ帝国皇帝アグスティン1世として即位した。しかし国家運営に失敗したため、1823年にアントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ将軍が共和制を支持して反乱を起こすと、アグスティン1世は失脚して退位し、1824年10月にはメキシコ合衆国憲法が制定されてメキシコは連邦共和国となった。また、アグスティン1世は1821年に中央アメリカを併合したが、1823年3月に共和派による革命で打倒され、同年中米地域が中央アメリカ連合州として独立した。

1824年には初代大統領にかつての独立戦争の英雄グアダルーペ・ビクトリアが就任したが、独立戦争による産業の疲弊は激しく経済は壊滅状態だった上に、カウディージョと呼ばれる土着の軍閥政治家たちが権力闘争を展開し、国政は乱れた。

1827年にスペインによる再侵略の可能性に備えてスペイン人を追放したため(第一次スペイン人追放)、流通業を担っていたスペイン人がいなくなるとメキシコの経済は大混乱し、1827年には最初の債務不履行に追い込まれた。さらにイトゥルビデ追放後も保守派と自由主義派による政権争いが激化し、1829年に自由主義者のビセンテ・ゲレーロがクーデターによって大統領になった。ゲレーロはスペイン人の完全追放(第二次スペイン人追放)、黒人奴隷制廃止、教会財産の接収、キューバの独立の支援などを行ったため、メキシコの再植民地化を目指したスペイン軍による再征服が行われた。サンタ・アナ将軍の活躍によりスペイン軍は撃退されたが、1830年に1月に保守派のアナスタシオ・ブスタマンテ副大統領が反旗を翻し、ゲレーロは追放された。

ブスタマンテは大統領に就任後、ルカス・アラマン蔵相の保護貿易政策によって繊維産業を中心とした国内工業の育成が進んだが、中央集権政策は地方諸州の反発を呼び、ブスタマンテ政権は崩壊した。保守政権が崩壊すると、1833年にサンタ・アナが選挙によって大統領に就任した。

一方、北部のコアウイラ・イ・テハス州には1821年以来アメリカ合衆国からアングロ・サクソン系の移民が黒人奴隷を引き連れて入植していたが、1829年にゲレーロが奴隷制を廃止すると中央政府への不満が高まり、その後の中央集権政策への反対もあってアングロ・サクソン移民が1835年に反乱を起こすと、1836年3月にテキサス共和国として独立を宣言し、テキサスにおいて奴隷制が復活した。サンタ・アナ将軍はアラモの戦いアングロ・サクソンの反乱者を打ち破るが、サミュエル・ヒューストンの率いるテキサス軍にサン・ハシントの戦いで敗れ、捕らえられたためにメキシコはテハス州がテキサスとして独立することを承認した。

テキサスの独立後、メキシコは大混乱に陥った。財政状況の悪化により給与の遅滞が続いたために軍の反乱が頻発し、さらに地方諸州がテキサスに倣ってユカタン共和国リオグランデ共和国として独立を宣言した。また、列強も混乱するメキシコに介入を目論み、1838年から1839年にはフランス軍がメキシコに侵攻した(菓子戦争)。この戦争でサンタ・アナは左足を失ったが、救国の英雄としてのカリスマ性を増幅し、以降サンタ・アナのメキシコ国政における立場は不動のものとなる。

1847年のメキシコの版図

一方、アメリカ合衆国はテキサスに対する野心を隠さず、1845年にアメリカ合衆国がテキサス共和国を併合すると、1846年5月にアメリカ合衆国はメキシコに宣戦を布告し、米墨戦争が勃発した。サンタ・アナ率いるメキシコ軍は1847年9月にメヒコ市を攻略されて敗北し、1848年2月にグアダルーペ・イダルゴ条約が締結されて戦争はメキシコの完敗に終わった。メキシコはテキサスのみならずカリフォルニアなどリオ・ブラーボ以北の領土(いわゆるメキシコ割譲地)をアメリカ合衆国に割譲し、実に国土の半分を喪失した。

戦後、メキシコは再び大混乱に陥り、1847年にはユカタン半島マヤ族が白人支配に反旗を翻してカスタ戦争が勃発した。1853年にはアメリカ合衆国南部人の海賊 ウィリアム・ウォーカー傭兵を率いて侵略を行い、バハ・カリフォルニア共和国を樹立した。ウォーカーはメキシコでは撃退されるが、後にニカラグアを占領し、大統領となった。保守派の大物政治家ルカス・アラマンはこの混乱を収拾できる唯一の人物だと見込んで、失脚していたサンタ・アナを再びメキシコに呼び戻した。1853年6月にアラマンが死去するとサンタ・アナは再び独裁者となり、1850年代には失地の回復を目指すメキシコはイギリスフランスなどの支援を受けて再戦準備を整えるが、クリミア戦争により主要支援国の財政状態が悪化したため計画自体が頓挫した。1854年にはガズデン協定を結んでメシーリャ地方をアメリカ合衆国に売却した。しかし、サンタ・アナの保守支配は国内の自由主義者の反発を呼び、1855年8月にフアン・アルバレスらによって率いられた自由主義者によって追放された。

1855年にサンタ・アナが追放され、アルバレスらが臨時政府を樹立すると、臨時政府は自由主義に基づいた「レフォルマ」と呼ばれる改革が行われ、保守勢力の後ろ盾となっていたカトリック教会と国家の政教分離、フアレス法(1855年)により司法制度の近代化が図られ、全てのメキシコ人の法の下での平等を実現し、レルド法(1856年)により教会財産の没収、さらに自由主義的な1857年憲法の制定などが行われた。このレフォルマはメキシコ社会に大きな影響を与え、近代的な価値観がメキシコにもたらされたことは事実だが、反面レフォルマは先住民共同体の解体やカトリック的価値観の喪失をも伴ったため、既存の保守派の猛反発と共にインディオ農民の保守派への合流をも引き起こし、1856年には全国各地で農民と保守派による大反乱が起きていた。

このような情勢の中で1857年12月1日に新憲法下初の大統領選挙によって自由主義穏健派のコモンフォルトが就任したが、12月17日にスロアガ将軍がクーデターを起こすとコモンフォルトは失脚した。しかし、ベニート・フアレス最高裁長官は保守派への徹底抗戦を誓ってアメリカ合衆国に亡命した後、ベラクルスに上陸して臨時政府を樹立し、レフォルマ戦争が勃発した。

フアレス政府は1860年12月25日にメヒコ市を攻略したが、戦争中に旧支配層は没落し、新興大土地所有者層が台頭した。また、3年に及んだ内戦の際に膨らんだ有償支援の返済が追いつかなくなり、後の債務不履行に繋がることになった。







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