マラッカ王国 文化

マラッカ王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/14 19:07 UTC 版)

文化

ハン・トゥアーの銅像

船舶と航海法

王国の海洋交易には、主に積載量に優れるジャンク船が使用された。王国末期の16世紀初頭に使われたジャンク船の積載量について、フランスの東南アジア史研究者Pierre-Yves Manguinは平均値を400から500トンと計算した[112]。ポルトガルとの戦争が始まると速度、操縦性、火力のいずれにも欠ける巨大なジャンク船は淘汰されていき、船舶の小型化が進んでいく[113]

交易や戦争に使われる船舶は国内の造船所で建造された船舶以外に、材木と技術者に恵まれたペグー朝のマルタバンで購入されることもあった[114]。マラッカの造船所に所属する大工の技術は高く、アルブケルケはマラッカを占領した後に造船所の大工60人をインドで使役するために連れ去った[115]

16世紀初頭のマラッカ王国では、船主たちによって独自の海洋法(ウンダン・ウンダン・ラント)が考案され[116]、船舶の所有者たちはこの法律を書き留めた[112]。この法はイスラム法(シャリーア)よりも優先されるものと位置づけられ、後にブギス族が制定した航海法にも影響を与えた[116]。航海法には船員に保証された諸々の権利、出向時の船の条件、停泊時の目的と責任などが定められているほか[117]、航行を助ける水先案内人の性質を定義もしている[118]

水先案内人は先人の知恵と自分たちの見聞を元に作成した独自の海図を用い、アルブケルケは1511年に入手したジャワ人の水先案内人の海図を今まで見た中で最高の地図と称賛した[119]。この海図には東にモルッカ諸島、中国人と琉球人の航路が、西にペルシャ湾紅海ポルトガル喜望峰ブラジルが描かれていたが、海図が積載されていたフロール・デ・ラ・マール英語版号の難破と共に失われた[119]

言語

マラッカを中心とする交易は、王国の商業共通語であるマレー語の使用地域を広げ、語彙の発達に影響を与えた。本来はマラッカ海峡の一地域で話されていたマレー語がマラッカ商人が訪れた土地に広まり、アラビア語ペルシャ語タミル語ジャワ語など交易の相手国で話されていた言語の単語がマレー語の語彙に加わった[105]。ポルトガルがマラッカに来航した16世紀初頭になると、スマトラ東岸部の住民の多くはマレー語を話すことができ、フェルディナンド・マゼランが到達した1521年当時のフィリピンでも、現地の住民はマゼランが連れていたスマトラ出身の奴隷が話すマレー語を介することができたという[120]

建築

イスカンダル・シャーの時代に、港の隣のブキット・マラッカ(マラッカの丘)にマレー様式の王宮が建てられた[121]。王宮は明、アユタヤ朝、琉球王国など同時代のアジアの国家の宮殿と比べると小規模なものであったが、それでもマラッカの王には十分な大きさであった[96]。また、最盛期のマラッカには新王の即位の都度、宮殿を新築する習慣があった[122]

王国では王宮のほかに石造りのモスクと王墓が建造されたが、いずれもポルトガルの占領後に王宮と共に解体され、ブキット・マラッカに建てられた城砦の資材とされた[123]

娯楽

『スジャラ・ムラユ』、『マラッカ法』には、当時のマラッカの住民が興じていた娯楽についての記録が残る。15世紀のマラッカでは、既に中国から伝わったカードゲームが賭博として楽しまれており、『マラッカ法』はカードゲームを好ましくない賭博の一つとしていた[124]。インドから伝わったチェスも賭博の対象となっており、『スジャラ・ムラユ』によると、スルタン・マンスールの治世にチェスが盛んであったパサイ王国の名人がマラッカを訪れ、マラッカの棋士をすべて負かしたという[125]

賭博の要素が絡まない娯楽としてセパッ・ラガ(セパタクローも参照)という蹴鞠に似た球技が遊ばれ、『スジャラ・ムラユ』にはスルタン・アラウッディン・リアヤト・シャーの時代、マラッカの貴族とモルッカの王がセパッ・ラガを楽しむ様子が書かれている[126]

文学

マラッカ王国期に発達したムラユ文学(マラッカ海峡周辺地域で誕生したイスラーム文学)の形の一つとして[127]、英雄譚が挙げられる。ハン・トゥアー、ハン・レキール、ハン・ジュバットら軍人の活躍を描いた説話が王国内で生み出された[128]


注釈

  1. ^ ピレスと同じ16世紀のポルトガル人ゴディーニョ・デ・エレディアポルトガル語版は、マラッカの地名はミロバラン英語版の木に由来すると述べた[4]
  2. ^ この婚約の8年後にイスカンダルは没したとピレスは記し、婚約が成立したのは1417年前後と計算できる[14]
  3. ^ ピレスによると、この婚姻の後イスカンダルはイスラムに改宗したとされるが、『東方諸国記』の訳注を担当した生田らは改宗にまつわる婚姻の説話は事実ではないと指摘した。しかし、イスカンダルが最初にイスラムに改宗したマラッカ王という点は肯定している[15]
  4. ^ 『東方諸国記』に訳注を施した生田らはスリ・パラメスワラ・デワ・シャーとムザッファル・シャー英語版が同一人物ではないかと指摘している[21]
  5. ^ マラッカの陥落がパタニに及ぼした影響については、A.リード(2002, p.286, 『拡張と危機』)に詳しい。
  6. ^ シャーバンダルの概略については、右記も参照。 家島彦一「シャーバンダル」『新イスラム事典』収録(平凡社, 2002年3月)、生田滋「シャーバンダル」『東南アジアを知る事典』収録(平凡社, 2008年6月)
  7. ^ 「永楽元年十月遣中官尹慶使其地、賜以織金文綺・銷金帳幔諸物。(中略)慶至、宣示威徳及招徠之意。」『明史』巻325、列伝第213、外国6、満剌加より。
  8. ^ 「帝嘉之、封為満剌加国王(後略)」『明史』巻325、列伝第213、外国6、満剌加より。
  9. ^ ピレス(1966, p.596)に、明への入貢が行われた年度が表にまとめられている。

出典

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