マイティ井上 来歴

マイティ井上

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/26 10:14 UTC 版)

来歴

大阪学院大学高等学校時代は柔道を行い、高校卒業(後述)後に国際プロレス入り。1967年7月21日、名古屋市金山体育館における仙台強戦でデビュー。小林省三藤井康行とともにマティ鈴木のコーチを受ける。1970年8月からは小林と共にヨーロッパ遠征に出向き、ミッキー・イノウエMikki Inoue)のリングネームで活動した。1971年3月2日に東京で行われた日本プロレスとの興行戦争を受けて一時帰国し、ビル・ミラーと対戦した後[2]、再度海外遠征に出立。カナダモントリオール地区では日系ヒールミツ荒川のパートナーとなり、エドワード・カーペンティアジョー・ルダックと対戦した[3]

1972年10月の帰国後はラッシャー木村サンダー杉山グレート草津らに次ぐエース候補と期待され、得意技のサマーソルト・ドロップ(サンセット・フリップ)と、中あんこ型の体型で一躍人気を得た。同じような体型のDRAGON GATE所属レスラー、ドン・フジイは、井上を目標にしていると発言している。1973年2月27日にはホセ・クィンテロと自身初の金網デスマッチを行っている[4]

1974年10月7日、スーパースター・ビリー・グラハムを破りIWA世界ヘビー級王座を獲得。井上は10月1日と10月5日にもグラハムに挑戦したがいずれも敗れており、三度目の正直での戴冠となった[5]。25歳にして先輩の木村・草津を追い抜き国際プロレスのエースとなった。同年11月4日、レイ・スティーブンスを破り初防衛に成功し、11月21日にはAWA世界ヘビー級王者バーン・ガニアとダブルタイトル戦を行い引き分けている。翌1975年も2月2日にダニー・リンチの挑戦を退けたが、4月10日にマッドドッグ・バションに敗れ王座転落。エースとしては半年程度の短命政権だった。その後は草津、アニマル浜口阿修羅・原と組んでIWA世界タッグ王座を保持、2〜3番手のポジションで戦った。特に浜口とは全日本プロレスとの対抗戦の際にアジアタッグ王座も獲得した名コンビで、「和製ハイ・フライヤーズ」または「浪速ブラザーズ」などと呼ばれ、ワイルド・サモアンズ上田馬之助&マサ斎藤大木金太郎&上田、ジプシー・ジョー&キラー・ブルックス、ジョー&キラー・カール・クラップマイク・ジョージ&ボブ・スウィータンなどの強豪チームを相手に王座を防衛した。原とのコンビでは、1981年8月8日に行われたジェリー・オーツ&テリー・ギッブスとの防衛戦において、国際プロレス最後の金網タッグ・デスマッチを行っている。

1981年に国際プロレスが崩壊してからは、原、菅原伸義冬木弘道と共に全日本プロレスに移籍。移籍第一戦はミル・マスカラスが保持していたIWA世界ヘビー級王座(かつて自身が保持していた国際プロレス版とは別のタイトル)への挑戦試合であった。

全日本ではジャイアント馬場ジャンボ鶴田など大型揃いのヘビー級に比べジュニアヘビー級が手薄であったことから、110kgだったウェイトを105kgに落としジュニア戦線に転じ、NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座、原や石川敬士と組んでのアジアタッグ王座などのベルトを巻く(その頃オースイ・スープレックスという技をよく使っていた)。ジュニア王座戴冠時には、国際プロレス時代にも流血の抗争を展開したジプシー・ジョーの挑戦も受けた。その後は中堅選手として永源遙渕正信らとのユニット「悪役商会」で馬場率いる「ファミリー軍団」との凄絶なお笑い抗争を繰り広げるも、1997年4月に内臓疾患のため長期欠場。結局1998年6月に現役を引退し、8月からはレフェリーに転向した。レフェリー転向直後はその余りにぎこちないレフェリングが逆に観客から大受けをしており、試合をしているレスラーを食ってしまうこともあった。

2000年の全日大量離脱、プロレスリング・ノア旗揚げの一連の動きに当たっては離脱側に賛同し、ノア移籍後もレフェリーを務めていた。赤いコスチュームがトレードマークであり、主に永源vs百田光雄などの前座試合のレフェリングを担当していた。レフェリングは主に「言葉のプロレス」が主体である。ノア移籍後はレフェリー紹介の際、観衆から一斉に「マァイティーー!!」と呼ばれるのがお約束となっていた。これは全日本時代のジョー樋口の「ジョー!!」や、全日本に残留した和田京平の「キョーヘー!!」のコールからの伝統である。2003年からはテレビ中継解説も行っていた。

その他ヨーロッパ遠征経験や、所属していた国際プロレスにはヨーロッパ出身の外国人選手が多く所属していたことから外国語が堪能である。このことを生かして外国人係も兼務し、リッキー・マルビンバイソン・スミスら常連外国人選手からは非常に頼りにされていた。ノアは外国人選手がどちらかと言うと目立たないが「うちの外国人レスラーはいい選手が多いよ」と常に外国人選手をカバーする側に回っていた。

2009年12月31日付でレフェリー契約が満了となりノアを退団[1]。その日行われた天下三分の計・大晦日年越しスペシャルに選手として出場した。

2010年5月22日、ノアの後楽園ホール大会「マイティ井上レフェリー引退記念興行」のレフェリングを最後に引退した。現在は宮崎県都城市在住[6]


  1. ^ 『月刊Gスピリッツ』Vol.2、辰巳出版、2007年10月3日、[要ページ番号] 
  2. ^ a b 『日本プロレス事件史 vol.8』、P41
  3. ^ The GPW matches fought by Mighty Inoue in 1972”. Wrestlingdata.com. 2023年12月26日閲覧。
  4. ^ IWE Big Challenge Series - Day 3”. Wrestlingdata.com. 2014年11月25日閲覧。
  5. ^ 『忘れじの国際プロレス』、P101
  6. ^ 『忘れじの国際プロレス』、P10
  7. ^ 『忘れじの国際プロレス』、P11
  8. ^ 『忘れじの国際プロレス』、P96
  9. ^ 『日本プロレス事件史 vol.10』、P11
  10. ^ a b c 『忘れじの国際プロレス』、P12
  11. ^ 『忘れじの国際プロレス』、P98
  12. ^ マイティ井上トークショー(2011年12月11日)
  13. ^ 『忘れじの国際プロレス』、P13
  14. ^ 『忘れじの国際プロレス』、P92
  15. ^ 流智美「あの日、あの時Vol.142 スーパースター・ビリー・グラハムvsマイティ井上@大分県体育館」、『週刊プロレス』No.1760、平成26年10月15日号(10月1日発行)、78頁、2014年。






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