ブリテンの先史時代 ブリテンの先史時代の概要

ブリテンの先史時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/23 15:45 UTC 版)

旧石器時代

ブリテン島の旧石器時代は、1万年前までである。この間、幾度かの氷期間氷期があり、気候・環境の変化がみられた。この時期の人類は、狩猟・採集によって生活していた。そして獲物である動物を追って、陸続きになっていたブリテン島に渡ってきた。

アシューリアンとよばれるハンドアックス。アフリカからヨーロッパまで広く分布している

初期旧石器時代

ホモ・エレクトスの骨・石器が、ノーフォークおよびサフォークで発見されている。当時ブリテン島とヨーロッパ大陸は陸続きになっており、テムズ川セーヌ川はまとまってひとつの川になっていた。ボクスグローブ(サセックス)などでは、50万年前のホモ・ハイデルベルゲンシスの化石が見つかっている。彼らは打製石器剥片石器およびハンドアックスを用いて、トナカイマンモスなど大型動物を食料としていた。サイゾウなどを集団で追い込み、沼の中や崖のふちまで追い込んでから仕留めたと考えられている。

45万年前から30万年前にかけて、アングリア氷期(日本ではギュンツ氷期)が訪れると、ブリテンから人類はいなくなった。極度の寒さが、人類の棲息を許さなかったものと推測されている。つづくホクスン間氷期(40万-37万年前)にはふたたび気候は温暖になり、サフォークなどでクラクトニアンという石器が発見されている。ハシバミの混合落葉樹林や草原が広がり、草食獣や肉食獣もブリテンに戻ってきた。これを追って人類もやってきて、クラクトニアン型とよばれる石器で槍をつくり、狩猟をしていた。人類はすくなくとも25人以上の団体で行動し、動物を追って移動していた。

その後また氷期(ウォルストン氷期)に入り、ツンドラとなったブリテンから人類は去ったが、その間の比較的温暖な時期にはブリテン南部に来る者もいた。ケントでは25万年前と推定される人類の頭蓋の断片が発見された。しかし人類が住んでいたという痕跡は少なく、イプスウィッチ間氷期(13万-7万年前)を通じて時おり人類がやってくるという程度であった。

中期旧石器時代

6万年前ごろから、ネアンデルタール人がブリテン南部に住むようになった。彼らが永続的にブリテンに住んでいたのか、それとも大陸から時々やってきては去るという生活だったのか、いまだ明らかにされていない。2002年、ネアンデルタール人に狩られたマンモスがノーフォークで発見された。ケント[要曖昧さ回避]では彼らが住んでいたと思われる洞穴が見つかっている。

後期旧石器時代

3万年前にホモ・サピエンスがブリテンにやってくるまで、ネアンデルタール人のブリテン居住地域は限られていた。この時期の化石としては、ウェールズで"Red Lady of Paviland"と呼ばれる、赤土を塗って埋葬された女性の化石が有名である。およそ29,000年前のものと推定され、この時期はオーリニャック文化とよばれる。

最後の寒冷期は、7万年前から1万年前にわたるディヴェンシャー氷期である。この間人類の痕跡はまばらであるが、同時に陸続きとなった大陸から少ないながらも人類がわたってきていた。15,000年前ごろから気候は温暖になり始め、しだいに落葉樹がブリテンを覆うようになっていった。温暖化にともない海面が上昇し、ブリテンが島になったのは8,500年前もしくはそれ以前と考えられている。

クレスウェリアン文化は、ブリテンの人類最初の文化といわれる。12,000年前ごろに現れたこの文化は、動物の骨や歯・貝殻そして象牙などから道具や装飾品を作っていた。さらに彼らは、こうして作った道具・装身具を、かなり遠い地域にまで運んでいた。デボンの洞穴で発見された石器は、160km離れたソールズベリー産であったことが確認されている。このほか、石器などの往来はスカンジナビア半島にまで及んでいた。

当時の人類が、かなり遠くまで移動し、道具を作るための「キット」を常に持参していたであろうと言われる。当時食料となる動物は、野生のアカシカなどが主流で、それがいなければ野ウサギからマンモスまで、何でも狩猟の的になった。彼らの埋葬方法は、死体の皮を剥ぎ、骨ごとにばらばらに分割して洞穴に葬るというものだったと推測されているが、証拠は十分ではない。一方で、化石の発見のされ方から、食人習慣が存在した可能性も指摘されている。彼らはまた、骨を削って描いた絵も残しており、精神文化の発展を見てとることができる。

新石器時代

ストーンヘンジ

ブリテンが島となってしばらくすると、人々の生活様式ががらりと変わった。それまでの狩猟・採集を主とする生活から、農耕・牧畜による生活になっていった。さらに土器がつくられ、食糧の貯蔵が可能となった。磨製石斧石臼、さらには祭祀用の建築物もつくられた。こうした変化は、一般に「新石器革命」とよばれ、ブリテンでは紀元前5000年-4000年ごろに始まったと考えられている。ブリテンの人々は、牛・豚を飼育し、小麦・大麦を栽培していた。こうして収穫された小麦・大麦は、石臼で挽いてパンにするか、煮てオートミールのようにして食べた。

初期の農耕は、焼畑を行って灰のなかに種子をまき、地力が減退すると土地を移すという略奪農法で、ふだんは移住生活をして収穫のときに戻ってくるという移住生活だった。やがて家畜が農耕にも活用されるようになり、犂をひいて土地を深く耕すようになった。さらに農耕に手間をかけるようになると、しだいに定住生活に移行していった。住居は円形や方形など一様でなく、穴を掘って柱を立て、その間に板や枝・わらをふき、土を塗ってつくられた。

新石器時代の中期(紀元前3300-紀元前2900頃)になると、祭祀用の碑がつくられた。ドルメン(支石墓)・メンヒル(立石)・クロムレック(環状列石)・アリニュマン(線上列石)などがブリテンのみならず、西ヨーロッパ各地に見られる。クロムレックのひとつであるストーンヘンジも、このころから製作が始まったと考えられている。

農耕の到来に伴うこれら巨石記念物の担い手は、ハプログループG2a (Y染色体)と考えられ、また元来からの狩猟採集民であるハプログループI (Y染色体)も混在していたようである[1][2]

なお、ミトコンドリアDNAの解析によれば、サマセット州チェダー峡谷で見つかった化石のミトコンドリアは、現代ヨーロッパ人の11%と一致している。




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