テオドール・ヘルツル テオドール・ヘルツルの概要

テオドール・ヘルツル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/04 01:19 UTC 版)

この項目では、インド・ヨーロッパ語族風に、名前を名姓順で表記していますが、ハンガリー語圏の慣習に従いヘルツル・ティヴァダルと表記することもあります。(Template:ハンガリー人の姓名
テオドール・ヘルツル
בנימין זאב הרצל
Herzl Tivadar
Theodor Herzl
生誕 (1860-05-02) 1860年5月2日
オーストリア帝国
ハンガリー王国 ブダペスト
死没 (1904-07-03) 1904年7月3日(44歳没)
オーストリア=ハンガリー帝国 エートラッハ
職業記者

生涯

ハンガリー(当時はオーストリア帝国の一部)のブダペストで生まれた。18歳の時にウィーンに移り[1]、法律・ジャーナリズム・文学を学んだ。

当初はコスモポリタン的なドイツ文化の教養を身につけて、高尚な貴族文化に憧れる穏健な教養人であったが、新聞記者としてフランスのドレフュス事件(1894年)の取材にあたったとき、いまだ根強いユダヤ人に対する偏見に遭遇してショックを受け、またモーゼス・ヘスの影響も受け、失われた祖国イスラエルを取り戻すシオニズム運動を起こした。

1893年、キリスト教社会党党首で反ユダヤ主義を主張していたカール・ルエーガーがウィーン市長に選ばれたことに衝撃を受ける。ヘルツルは、「ユダヤ人の間には一種の絶望感が漂っている」と日記に記した[1]。同じ頃の東ヨーロッパでのユダヤ人迫害(ポグロム)、また、当時のオーストリアにおけるルエーガーやゲオルク・フォン・シェーネラーによる反ユダヤ主義的大衆運動に接することによって、彼の態度が鮮明になったといわれる。

ヘルツル生誕の地,Dohány街シナゴーグ,ブダペスト
ユダヤ人国家英語版

1896年、シオニズム運動のさきがけをなす著作『ユダヤ人国家英語版』を出版した。ここでは、ユダヤ人国家像と国家建設のプログラムを詳細に記されている。

1897年スイスバーゼルにおいて最初のシオニスト会議をひらいた。第1回シオニスト会議では、各国のユダヤ評議会によって選出された代表200人が参加したが、ヘルツルの威厳のある立居振舞いは「ユダヤ人の王」とさえ呼ばれるほどであったという。

また、彼は小説『古く新しい国』(1902年)の冒頭に「もしあなたが望むなら、それはお伽噺ではない」と書いて、ユダヤ人国家の建設を主張している。ユダヤ人国家の建設地としては、必ずしも聖地エルサレムがあるパレスチナにこだわらず、南アメリカアルゼンチンや、アフリカウガンダも候補地にしていた[2]

1904年に心臓病により44歳で死去したが、その遺志は多くのユダヤ人に受けつがれることとなった。

死後の顕彰・関連

  • 1968年発行の旧100イスラエル・リラ紙幣から1978年発行の旧10シェケル紙幣まで肖像が使用されていた。
  • ライフ誌が1999年に選んだ「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に選ばれている。



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