ジョン・ダンロップ (宣教師) 生涯

ジョン・ダンロップ (宣教師)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/26 07:00 UTC 版)

生涯

カナダのオンタリオ州キングストンに生まれる。クイーンズ大学を卒業し、C・S・イビーの自給伝道隊に応募し1885年(明治18年)に来日、浜松尋常中学校[要出典][注釈 1]で教鞭を取る。1888年(明治21年)、日本メソジスト教会教職試補、同年9月、静岡県尋常中学校で教鞭を取り(〜1890年3月)[2]1890年(明治23年)、長野県尋常師範学校(現・信州大学)の教師になる。教職のかたわら、長野県で開拓伝道を行い、長野メソヂスト教会(長野県町教会)の基礎を築いた。

1892年(明治25年)にメソジスト日本年会で按手礼を受け、1893年(明治26年)に静岡教会(現、日本基督教団静岡教会)、1894年(明治27年)に本郷中央会堂(現、日本基督教団本郷中央教会)、1895年(明治28年)からは新潟県の高田教会を担当した。1897年(明治30年)にカナダへ休暇のために一時帰国し、1898年(明治31年)にアメリカ長老教会に移籍して来日すると、11月にT・C・ウィンの後を継いで金沢教会(現、日本基督教団金沢教会)に赴任し、1918年(大正7年)まで福井市金沢市で伝道をする。

1909年(明治42年)10月5日から10月10日まで開催された宣教開始50年記念会に出席して、「将来に於ける宣教師の事業」と題する講演を行う。1910年(大正9年)3月12日に東京基督教青年会館大正改訳聖書の改訳委員の第1回会合が開催され、ダンロップはD・C・グリーン、フォス、別所梅之助松山高吉と共に出席した[注 1]

1919年(大正8年)からは東京で奉仕し、1922年(大正11年)からは三重県津市で開拓伝道をした。しかし、1932年昭和7年)に健康を害して長野県軽井沢町で療養するが、その地で死去する。

生前、長年の日本での功績により、母校クイーンズ大学より名誉神学博士号を受けた[注 2]


注釈

  1. ^ 日本に尋常中学校ができたのは1886年以降のことであり、1880年代に、いかなる形であれ、浜松周辺に尋常中学校は存在していないことから、別の時期の記載、もしくは別名の学校・機関での出来事ではないかと推察される。

出典

  1. ^ 議長にはグリーンが選ばれ、ダンロップは別所と共に書記に選ばれた。3月14日には2回目の会合が開かれてヘンリー・ルーミスが4月より参加し、川添万寿得と藤井寅一が委員として追加されることが決まった。しかし、ルーミスとダンロップはほとんど出席しなかった[1]
  2. ^ クイーンズ大学よりはM.A.とD.D.の2つの学位を受けている[3]
  1. ^ a b 鈴木 2006, pp. 120
  2. ^ 『静中・静高同窓会会員名簿』平成15年度(125周年)版 30頁。
  3. ^ 澤田 1988, pp. 859


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