ジャン=ピエール・ベルトワーズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/26 07:50 UTC 版)
ジャン=ピエール・ベルトワーズ | |
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基本情報 | |
フルネーム | ジャン=ピエール・モーリス・ジョルジュ・ベルトワーズ |
国籍 | フランス |
出身地 | フランス共和国 パリ |
生年月日 | 1937年4月26日 |
没年月日 | 2015年1月5日(77歳没) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1967-1974 |
所属チーム |
'67-'71 マトラ '72-'74 BRM |
出走回数 | 85 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 1 |
表彰台(3位以内)回数 | 8 |
通算獲得ポイント | 77 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 4 |
初戦 | 1967年モナコGP |
初勝利 | 1972年モナコGP |
最終勝利 | 1972年モナコGP |
最終戦 | 1974年アメリカGP |
マトラチームと縁が深く、スポーツカーレースおよびF1でも長年マトラを駆っていた。
略歴
元々は2輪でレースのキャリアをスタートさせたが、その後4輪に転向。
1964年、スポーツカーレース参戦時における大クラッシュで負傷。これ以後片足に障害を抱え、また右肘も曲げることが出来なくなる。しかし、翌1965年にフランスF3でチャンピオンを獲得するなど、以後も活躍を見せる。
F1
マトラ時代
- 1966年
1966年第6戦ドイツGPにおいて、マトラのF2マシンでF1に出走。F2マシンでの参戦の為、公式にはデビューとはならなかったが、8位で完走を果たしている。
- 1967年
翌1967年は、第2戦モナコGP・第10戦アメリカGP・第11戦メキシコGPの3戦にマトラのF1マシンでスポット参戦。モナコGPは予選落ちとなったが、アメリカGPでは予選を通過しF1デビュー戦を果たし7位完走。メキシコGPでも同様に7位で完走した。
- 1968年
1968年よりレギュラー参戦を果たし、開幕戦の南アフリカGPで6位に入り初入賞を記録。第2戦スペインGPでも5位入賞、この際に初のファステストラップ(以下:FL)を獲得している。また第5戦オランダGPでは、2位に入り初表彰台を記録、また2度目のFLを記録している。シーズン後半はリタイヤが続くが、第9戦イタリアGPでは5位入賞。12戦中4度入賞、FL2回という成績をおさめた(ランキング9位)。
- 1969年
この年は第5戦フランスGPで、自身の当時最高位となる2位を記録。これを含め、全11戦中7度入賞(うち表彰台3回)、FL1回の成績でランキング5位を獲得、結果的はF1における自身最高成績となった。また第3戦モナコGPで3番グリッド、第9戦カナダGPで2番グリッドにつけるなど、予選でも速さを見せるようになる。
- 1970年
1970年は全13戦中、2度の3位表彰台を含む6度の入賞を記録。ランキングは9位となった。
- 1971年
1971年は全11戦中参戦は計7戦のみとなった。それまでは、優勝こそ無いものの毎シーズンに数回表彰台にのぼる活躍を見せていたが、この年は入賞すら第2戦スペインGPでの6位1度の不本意な成績に終わり、ランキングは22位。シーズン終了後、BRMに移籍する。
BRM時代
- 1972年
BRMの初年度となった1972年は、全12戦中開幕戦アルゼンチンGPを欠場したため、11レースへの参戦となった。豪雨の第4戦モナコGPでは、予選4位からスタートでトップを奪取し、そのまま終始トップを走り続け初優勝。FLもマークしており、2位のジャッキー・イクスに28秒差をつけての完全勝利だった。しかしシーズンを通しては、モナコGP以外は表彰台はおろか、入賞すら無しという結果に終わる(ランキング11位)。
- 1973年
1973年も不振が続き、全15戦中8回のリタイヤを喫した。そんな中でも4位1回・5位3回と計4度の入賞を記録するが、表彰台にあがることは出来なかった(ランキング10位)。
- 1974年
1974年は、それまでチームのスポンサーだったマールボロが離れてしまい、資金難の中でのレースとなるが、開幕戦アルゼンチンGPで5位に入る。第3戦南アフリカGPでは2位に入り、久々に表彰台にのぼった。また第5戦ベルギーGPでも5位に入るが、以降は入賞を記録出来なかった。最終戦のアメリカGPでは、デビュー年以来となる予選落ちも喫し、このGPをもってF1からは去っていった(ランキング13位)。
リジェのテストドライバー
1975年シーズンオフ、翌年より参戦を開始するリジェのテストを担当[1]。レギュラードライバーとしての参戦も予定されていたが、共にテストを担当していたジャック・ラフィットと交代となり[2]、F1復帰はかなわなかった。
F1後
元々スポーツカーレースで名を馳せており、F1後も、スポーツカーレースでは活躍。1980年代にはプジョー・505GTIを駆ってフランスのツーリングカー選手権で多くの勝利を挙げた。また、ラリーに参戦したこともある。
2015年1月5日、脳卒中によりセネガル・ダカールの別荘で死去[3][4]。77歳没。
逸話
ワイン愛好家であり、特にシャトー・ベル・アシーズ・クォーを好んでいた[5]。
- ^ 『オートスポーツ』 1976年1月15日号(三栄書房)43頁。
- ^ 『オートスポーツ』 1976年3月1日号、36頁。
- ^ ジャン・ピエール・ベルトワーズ、77歳で死去 F1-Gate.com 2015年1月5日
- ^ F1ベルトワーズ氏死去 モナコGPで優勝 朝日新聞 2015年1月6日
- ^ “Topics Archives - 7ページ目 (8ページ中)”. BIRDY. OFFICIAL SITE. 2023年10月26日閲覧。
- ^ “Jean-Pierre Beltoise – Biography”. MotorSportMagazine. 2019年1月20日閲覧。
- ^ “All Results of Jean-Pierre Beltoise”. RacingSportCars. 2019年1月20日閲覧。
- 1 ジャン=ピエール・ベルトワーズとは
- 2 ジャン=ピエール・ベルトワーズの概要
- 3 物議を醸したレース
- 4 関連項目
固有名詞の分類
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