クヌート1世 (イングランド王) 教会との関係

クヌート1世 (イングランド王)

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教会との関係

ウィンチェスターのハイド修道院英語版にクヌートが巨大な黄金の十字架を贈ったことで、天使がクヌート (右下) に王冠を授けている。左下は王妃エルフギフ、上段は左から順に聖母マリアイエス・キリストペトロを表す。大英図書館収蔵の『生命の書 (Liber Vitae) 』より。

征服者としてのクヌートの行動と、転覆した王朝に対する冷酷な仕打ちは、教会との関係に彼に不安を抱かせた。スカンディナヴィアのキリスト教化は全く達成されていなかったが、彼は王である前からキリスト教徒であった——洗礼の際にランバート (Lambert) と名付けられた[76][77]。彼は既にエルフギフと結婚していたが、エクセターの私有地の南部に取り籠められていたエマとの婚姻は、教会の教義に対する新たな確執であった。教会関係者と和解する努力をしようと、クヌートはヴァイキングの略奪の犠牲となったイングランドの教会や修道院を全て修復し、財源を補填した。また、彼は新しい教会を建設し、修道会社会の熱心な擁護者でもあった。彼の故郷デンマークは、キリスト教国として台頭してきており、宗教を増進しようとする欲求がまだ新鮮だった。例えば、スカンディナヴィアで最初に建てられたと記録された石造りの教会は、1027年頃のロスキレにてであり、その後援者はクヌートの妹エストリズ・スヴェンスダッタだった[78]

クヌートの教会に対する姿勢が、深い宗教的信仰心に由来するのか、又は単に政権の民衆への支配力を強化するための手段だったのかを突き止めるのは難しい。オーラヴ2世のように、ヴァイキングの指導者達はキリスト教の教えの厳格な順守にこだわったが、クヌートのスカルド詩が北欧神話を飾り立てることに彼は十分満足したという、彼を賛美する詩の中には異教を尊重していた証拠がある[79]。しかし、彼はまた、ヨーロッパの中で立派なキリスト教国家でありたいとの願望を表している。1018年、リーフィングがローマから戻った時に、教皇から激励の手簡を受け取るためにクヌートはカンタベリーにいたとする史料もある[80]。この年代記が正しければ、恐らく彼はカンタベリーからオックスフォードでの賢人会議に行き、この出来事を記録するためヨークの大司教ウルフスタンも同席したと見られる[81]

彼のキリスト教世界に対する贈り物は広範囲に及び、しばしば豊かであった[82]。一般的には土地が与えられ、税金が免除され、聖遺物も与えられた。カンタベリー教会は、重要な港であるサンドウィッチの利権と免税措置を付与され、祭壇の上に憲章を置くことを確認すると共に[81]、ロンドン市民の不満を買いつつエルフェージ英語版の聖遺物を入手した[83]。王の厚遇を受けたもう一つの司教区はウィンチェスターであり、財政面においてカンタベリーに次いでいた[84]ニュー・ミンスター英語版の『生命の書英語版』 (Liver Vitae) はクヌートを僧院の後援者として記録しており[84]、銀500マークや金30マルク、様々な聖人の遺物[85]と共にウィンチェスターの十字架が贈られた。オールド・ミンスター英語版聖ビリヌス英語版の遺物のための聖堂の受領者であり、おそらくその特権の堅信礼であった[84]。イヴシャム Eveshamの大修道院長エルフワード Ælfweardは、エルフギフ夫人 (エマ女王よりはおそらくエルフギフ・オブ・ノーサンプトン) を通じた王の親戚だと言われており、聖ウィグスタン英語版の聖遺物を得た[86]。彼のスカルド詩が「宝物を破壊している」[87]とした、このような廷臣への気前の良さは、イングランド人には人気があった。しかし、全てのイングランド人が彼を支持したわけではないことへの留意は肝要であり、税金の負担は大いに感じられていた[88]。彼のロンドンの教区に対する態度は、明らかに穏やかなものではなかった。イーリーグラストンベリーの修道院との関係も良好ではなかったようである。

近隣の国々にも様々な贈り物が与えられた。その中には、シャルトルに贈られたものもあり、その司教は次のように書いている。「貴殿が送ってくれた贈り物を見て、我々はその知識と信仰に驚きました...異教の王子と聞いていた貴殿が、キリスト教徒であるだけでなく、神の教会や奉仕者に最も手厚い寄付をしていることが分かりましたから[84]。」クヌートはピーターバラで作られたソルターサクラメンタリー英語版ケルンに贈り[89]、金で記された書物やその他の贈呈品はアキテーヌ地域圏ギヨーム5世に贈られた[89]。この金の書物は、アキテーヌの守護聖人聖マーシャル英語版使徒とする、アキテーヌ住民の主張を支持するものだったとされる[90]。ある程度の帰結として、その受領者は熱心な職人であり、学者であり、敬虔なキリスト教徒であり、そして聖マーシャル修道院英語版は、クリュニーの修道院に次ぐ偉大な図書館かつ写字室でもあった。クヌートの贈呈品は、今日知ることが出来る以上のものであることも有り得る[89]

クヌートの1027年のローマへの旅路は、キリスト教に対する彼の献身の別の証である。彼は二大国間の関係を強化するために、コンラート2世の戴冠式に出席したのかもしれないが、彼はかねてより天界の鍵を持つペトロの寵愛の追求を誓っていた[91]。ローマ訪問中のクヌートは、イングランドの大司教達がパリウムを受領するために彼らにより支払われる代金を減額するための協定を、教皇と結んだ。また、自国からの巡礼者が不当な通行料により制限されぬよう、尚且つ、彼らのローマへの往復路が保護されるよう彼は手配した。1030年に2度目の巡礼旅行をしたという証拠もいくつか存在する[92]


注釈

  1. ^ デンマーク語:Knud den Store / Knud II、ノルウェー語:Knut den mektige、スウェーデン語:Knut den Store
  2. ^ クヌートはそこで彼を王と呼ぶ硬貨を鋳造させたが、彼の侵略についての物語の記録はない。
  3. ^ アール、イギリス伯爵に相当。スカンディナヴィアを起源に持つ称号であり、既にイングランドでもローカライズされ使われていたが、現在では全ての地域でエアルドルマンに代わって使用されている。
  4. ^ Enimvero extra numerum bellorum, quibus maxime splenduit, tria gessit eleganter & magnifice

出典

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