エクアドルの歴史 エクアドルの歴史の概要

エクアドルの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/09 13:34 UTC 版)

先コロンブス期

エクアドルにおける人間の活動は、エル・インガやチョブシ洞穴の発掘により、およそ紀元前10000年ごろには始まっていたと確認されている。

紀元前6000年からトウモロコシヒョウタンの栽培が始まり、紀元前4000年頃から土器の製作が開始される。それ以後の時期区分は、紀元前4000年頃から同300年頃までを形成期、紀元前300年頃から紀元700年頃までを地方発展期、紀元700年頃以降からスペインの征服によって植民地時代になる16世紀前半までを統合期と区分している。

チョレーラの土偶。バルディヴィアにくらべて大型で豊満である。頭のかぶり物は小さくややイレギュラーなタイプ
ハマ・コアケの土偶。
バイーア文化の土偶。特徴的ないぼ状の頭飾りをつけていて、神官の座像と考えられている。

エクアドルの南海岸グァヤス地方に興ったバルディヴィア文化スペイン語版英語版(紀元前4000年頃から同1500年頃)は、おおむね10cm弱で呪符のように平たくてのっぺりとした女性の土偶とTの字型、三角形、様式化された人面装飾、羽状ないしヘリンボーン(杉綾文様)のような文様をはじめとする幾何学的な刻線文、貼付文、爪形文などさまざまな文様を刻んだ土器で知られる。そういった文様と丸底の鉢が多いという特徴は、土器がヒョウタン容器を模して作られたことを示している。土器の文様のうち、一部のものが九州縄文時代前期から中期の初頭の土器、例えば曽畑式などと酷似していることで知られる。バルディヴィア遺跡を調査したエヴァンス夫妻やベティ・メガースが60年代に唱えた「太平洋横断伝播[接触]説」(Pacific Contact)古田武彦「倭人南米交流説」などがある[1]。実際に伝播があったかどうかについては、型式的な比較ですべてが同じではあるとはいえないことと、器形や伝播経路などから考えて不可能であるとする反対意見も存在するが、この仮説は駐日エクアドル大使がエクアドルの土器と日本の土器の類似性に触れるなどの影響を与えており[2]、土器の相対編年を重視するエヴァンス夫妻の研究は大貫良夫ら日本人研究者がエクアドルの歴史を研究するきっかけの一つとなった。また、遺構としては、茅葺様の住居跡や祭祀を行ったと思われる公共的な建造物がつくられた。現在確認されている最大級の集落遺跡としては、サンタエレナ半島南部の海岸から2km内陸に位置するレアル・アルトが挙げられる。レアル・アルトは、紀元前2800年から同2600年ごろに著しく発展を遂げ、その規模は300m - 400m四方にまで達した。集落は、祭祀用と考えられる建物二棟がある長方形の広場を囲むように住居が配置されていた。 生業としては、一般的に魚骨や多量の貝殻、カニの殻のほか鹿骨なども確認されるほか、トウモロコシ、ヒョウタンに加えて、タチナタマメカンナなどの栽培がおこなわれていたことが植物遺存体やプラント・オパール分析で判明している。また装身具のなかにはペルーでも用いられていた貴重品であるスポンディルス貝(ウミギクガイ)で作られた首飾りや面などがみられ、かなり遠方との交易が行われていたことも示していた。

バルディヴィア文化に続いて海岸地方では、マチャリーリャ文化が紀元前1500年頃から同1200年頃に興る。マチャリーリャ文化の時期に鐙型注口土器が出現し、ペルーのチャビン文化に影響を与えたのか、それともマチャリーリャが起源なのか研究者の間で議論になっている。またマチャリーリャ文化の時期に初めて40cmに達する大型で中空の土偶が出現した。いずれにしてもクピスニケ・スタイルの太い注口をもち、チャビン的な文様(チャビノイデ)が刻まれた土器がエクアドルからも出土している。ひきつづく海岸地方の形成期後期(紀元前1200年頃 - 同200年頃)は、チョレーラ文化の時代になる。チョレーラ文化は、マチャリーリャ文化の伝統を引き継ぎ大型の中空土偶を発達させる。チョレーラ文化の土偶は、前面が型をとって作られ、背面が手づくねでつくられた。バルディヴィアの場合と異なり完形品で発見される。めだつのは赤色スリップで彩色され刻線で文様が付けられ、おおきなかぶり物をつけて目を閉じて「気をつけ」の姿勢をした直立の女性像である。墳墓の副葬品や祭祀に用いるために大切に安置されたものではないかと推察される。 一方で高地では、バルディヴィア並行の前期ナリーオ文化、チョレーラ並行の後期ナリーオ文化のほかに、首都キトがあるキト台地に紀元前1500年から同500年頃に位置づけられるコトコリャオ文化の集落が確認されている。住居跡は、方形の堀くぼめられて柱穴を伴い、一辺が4 - 5m、他辺が6 - 8mの長方形である。石材などを用いているわけではないので建物自体が残っているわけではない。鐙型注口土器、石製の鉢、臼、耳飾り、斧のほか骨角器が確認されている。

地方発展期(紀元前300年から紀元700年頃)には、階層社会や祭祀センターなどが成立した。

中部海岸で、ネガティブ技法の土器と人間や動物をかたどった素朴であるが彩色の施された、もしくは彩色のない頭にいぼ状の頭飾りをつけた土偶で知られるバイーア文化、中空で写実的な型どりの土偶を作ったハマ・コアケ文化が知られる。ハマ・コアケの土偶は、鮮やかな彩色が施され、農具、笛、服、頭飾り、農作物などの装飾が別々につくられ、あたかも着せ替え人形のようにとりつけ取り外しが可能になっている。神官や戦士を思わせる土偶がみられる。ハマ・コアケの大祭祀センターは、やや内陸のサン・イシドロにマウンド群が確認されている。国土の北端部の海岸には、ラ・トリータ文化で、型をつかって人物や牙をはやした怪人など超自然的存在を表現した土偶が作られた。ラ・トリータの大センターもラ・トリータ島に40基ものマウンド群が確認されている。また、ラ・トリータは黄トゥンバガプラチナを用いた仮面や装身具の金属加工にすぐれ、コロンビア南端のトゥマコ様式との関連が推察される。一方、高地ではネガティブ技法で幾何学文を施した細長いや鉢で知られるトゥンカワン文化が栄えた。

紀元700年から16世紀半ばまでは統合期と呼ばれ、シエラ(高地)でパンサレオ文化、海岸地帯で、黒色に磨かれて頭に皿をつけた男性立像や「石の座席」と呼ばれるうずくまった人物やネコ科動物がU字状の台を背負ったような石彫で知られるマンテーニョ文化が栄えた。「石の座席」はもともと祭祀に用いられた建物の内壁にそって並べられていたことが、マンテーニョ文化に属するアグア・ブランカ遺跡の調査で判明した。

統合期の社会については、サランゴと呼ばれる強力な首長を戴いた首長制社会が成立していたことがスペイン人の残した記録から明らかになっている。

タワンティンスーユの支配

キトの皇帝アタワルパ
インガピルカの遺跡。

このようにして現在のエクアドルに成立した諸文化は、最終的に15世紀後半にタワンティンスーユ(インカ帝国)の皇帝 トゥパク・インカ・ユパンキによって征服された。後にインカ帝国は、北はエクアドルとコロンビアとの国境、南はチリ北部にいたる南北4000kmを支配するまでの大帝国になった。

インカ皇帝ワイナ・カパックには二人の息子がおり、キト北方出身のオタバロ族の母親を持つアタワルパキトを支配させ、もう一人の息子ワスカルに首都クスコを支配させることを提案した。しかし、16世紀初め頃からパナマ地峡を通じてヨーロッパからもたらされた疫病により、ワイナ・カパックが亡くなると帝位継承を巡って内乱が起こった。







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