アンドレ・アガシ
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アンドレ・アガシ | ||||||||||
基本情報 | ||||||||||
フルネーム | Andre Kirk Agassi | |||||||||
国籍 | アメリカ合衆国 | |||||||||
出身地 | 同・ネバダ州ラスベガス | |||||||||
生年月日 | 1970年4月29日(52歳) | |||||||||
身長 | 180cm | |||||||||
体重 | 80kg | |||||||||
利き手 | 右 | |||||||||
バックハンド | 両手打ち | |||||||||
殿堂入り | 2011年 | |||||||||
ツアー経歴 | ||||||||||
デビュー年 | 1986年 | |||||||||
引退年 | 2006年 | |||||||||
ツアー通算 | 61勝 | |||||||||
シングルス | 60勝 | |||||||||
ダブルス | 1勝 | |||||||||
生涯通算成績 | 910勝316敗 | |||||||||
シングルス | 870勝274敗 | |||||||||
ダブルス | 40勝42敗 | |||||||||
生涯獲得賞金 | $31,152,975 | |||||||||
4大大会最高成績・シングルス | ||||||||||
全豪 | 優勝(1995・2000・01・03) | |||||||||
全仏 | 優勝(1999) | |||||||||
全英 | 優勝(1992) | |||||||||
全米 | 優勝(1994・99) | |||||||||
優勝回数 | 8(豪4・仏1・英1・米2) | |||||||||
4大大会最高成績・ダブルス | ||||||||||
全仏 | ベスト8(1992) | |||||||||
全米 | 1回戦(1987) | |||||||||
国別対抗戦最高成績 | ||||||||||
デビス杯 | 優勝(1990・92・95) | |||||||||
キャリア自己最高ランキング | ||||||||||
シングルス | 1位(1995年4月10日) | |||||||||
ダブルス | 123位(1992年8月17日) | |||||||||
獲得メダル | ||||||||||
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史上唯一のキャリア・グランドスラム・オリンピックシングルス金メダル・ATPツアーファイナルチャンピオンシップ優勝の3冠のスーパースラム達成者[1]。4大大会通算8勝は、ジミー・コナーズやイワン・レンドルらと並ぶ男子歴代8位タイ記録 [2]。
父親はイランからの移民者で、アルメニア系の元ボクシング選手であり、母親はイングランド系の白人である。姉のリタは往年の名テニスプレーヤーパンチョ・ゴンザレスの最晩年の妻でもある。
妻は、同じくテニス選手のシュテフィ・グラフ。
選手経歴
アガシは4人兄弟の末っ子として生まれ、4歳からテニスを始めた。13歳の時、彼はフロリダ州ボカラトンにあるニック・ボロテリー・テニスアカデミーに入学した。1986年に16歳でプロ転向。1988年全仏オープンと1988年全米オープンで初のベスト4に入り、ATPツアーでも年間6大会に優勝して、18歳で世界ランク3位に躍進した。しかし1990年全仏オープン決勝ではアンドレス・ゴメスに、同年の全米オープン決勝ではピート・サンプラスに敗れる。翌1991年全仏オープン決勝では、少年時代からのライバルであったジム・クーリエに敗れて2年連続の準優勝に終わった。
1992年ウィンブルドン選手権決勝でゴラン・イワニセビッチをフルセットの末に破り、宿願の4大大会初優勝を達成。その後1994年全米オープンと1995年全豪オープンでも優勝し、1996年アトランタ五輪では決勝でスペインのセルジ・ブルゲラを破って金メダルを獲得した。
1997年4月には女優のブルック・シールズと結婚するが、わずか2年で離婚する。
それからしばらくは極度の低迷に陥り、同年末には世界ランキングを141位まで落とす。しかし、当時のコーチであったブラッド・ギルバートの指導により、徐々に復調を果たす。1999年全仏オープン決勝で、アガシはアンドレイ・メドベデフに2セット先取されてからの大逆転で破り、1969年のロッド・レーバー以来30年ぶり史上5人目のキャリア・グランドスラムを達成した。この偉業で再び波に乗ったアガシは、同年の全米オープンで5年ぶり2度目の優勝を遂げ、2000年全豪オープン・2001年全豪オープンで大会2連覇を果たした。
引退直後のシュテフィ・グラフと交際し、2001年10月22日に再婚した。同年代のライバルたちがほとんど現役引退した後も、アガシが世界トップ10の活躍を続けてきたのは、4大大会通算「22勝」を達成したかつての名選手、グラフの内助の功が大きいとされている。
2003年全豪オープン決勝戦でライナー・シュットラーを破った後、しばらく4大大会の決勝から遠ざかっていた。全仏オープンでは2004年と2005年の2年連続で初戦敗退を喫している。2005年全米オープンで、35歳にして3年ぶり6度目の全米決勝進出を果たしたが、第1シードのロジャー・フェデラーに3-6, 6-2, 6-7, 1-6で敗れて準優勝に終わった。
アガシは2006年6月24日に会見を開き、同年の全米オープン終了後に現役引退する意向を表明した。最後のウィンブルドン選手権では、3回戦で第2シードのラファエル・ナダルに6-7, 2-6, 4-6で完敗した。そして、現役最後の大会となった全米オープンでは1回戦でアンドレイ・パベルを、2回戦でマルコス・バグダティスを破ったが、3回戦で予選勝者ベンヤミン・ベッカーに5-7, 7-6, 4-6, 5-7で敗れ、21年間の現役生活に終止符を打った。
アガシのATPツアー初優勝は1987年11月のイタパリカでの大会で、最後の優勝は2005年7月のメルセデスベンツ・カップ大会であった。
プレースタイル
ライジングショット、リターンを得意とした1990年代から2000年代前半有数のグラウンドストローカー。
相性から、1990年代~2000年代前半のビッグサーバー達(シュティヒ、ロディック等)をカモにしていたが、クーリエ、チャン等グランドストローカー同士には苦戦することもあった。
ハードヒットする時にヘビースピンからフラットまで幅広く打ち分けられるのも大きな特徴。インパクトの時間までコントロールできるような天才的なボールタッチを持っている。そのため球種も豊富で、縦方向と横方向と両方のボールコントロールに優れている。 バックハンドは安定性を重視しており、リストワークでトップスピンの量を調整できる[3]。
世界一と言われたリターンは小さなテイクバックから強打する技術があり、さらに不十分な体勢でもしっかりと返せるリストワークや面の操作のうまさがある。そして、打球反応やハンド・アイ・コーディネーションも良く、早いタイミングで正確にボールをとらえられる(打点が遅れることがほとんどない)ので、ミスも少なく攻撃力も高い。どんな相手にもつねにポジションを前にとってプレッシャーをかけ続け、相手のファーストサービスの確率を落としていく[4]。
アガシは若い頃から、ライジング打法を用いた積極的に攻めるテニスを得意としたが、ともすると強引にエースを狙いすぎる傾向があり、自分のリズムを崩してしまうこともたびたびであった。キャリアの後半はライジング打法をカウンターとして用い、非常に安定したテニスを繰り広げてきた[5]。
- ^ 妻のシュテフィ・グラフも達成しており、なおかつこちらは史上唯一の年間ゴールデンスラム達成者である。
- ^ 現在の4大大会は全豪オープンと全米オープンがハードコートで行われるが、かつては芝生とクレーしかなかった。4大大会で異なる3種類のサーフェスをすべて制したのは、アガシ、コナーズ、マッツ・ビランデル、ラファエル・ナダル、ロジャー・フェデラーとノバク・ジョコビッチの5人だけである (全米オープンのコートは、芝生・クレー・ハードと変遷。コナーズはそのすべてのサーフェスで優勝したが、グランドスラムは達成していない。またビランデルはウィンブルドン優勝こそないが1983,84年にまだ芝生で行われていた全豪を制しており、ハードになった後の全豪、全米及びクレーの全仏で優勝経験がある)
- ^ http://news.tennis365.net/lesson/pro/m_agassi01.html
- ^ http://news.tennis365.net/lesson/pro/m_agassi03.html
- ^ Nick Bollettieri. “Building the Agassi Backhand”. tennisplayer.net. 2014年6月4日閲覧。
- ^ アガシ氏 カツラの使用を認める
- ^ Andre Agassi.aspx
- 1 アンドレ・アガシとは
- 2 アンドレ・アガシの概要
- 3 引退後
- 4 主要大会決勝
- 5 ATPツアー決勝進出結果
- 6 関連項目
固有名詞の分類
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