アンドレイ・メドベデフとは? わかりやすく解説

アンドレイ・メドベデフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/24 08:02 UTC 版)

アンドレイ・メドベデフ
Andriy Medvedev
アンドレイ・メドベデフ
基本情報
国籍 ソビエト連邦
 ウクライナ
出身地 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国 キエフ(現:キーウ
生年月日 (1974-08-31) 1974年8月31日(50歳)
身長 193cm
体重 93kg
利き手
バックハンド 両手打ち
ツアー経歴
デビュー年 1991年
引退年 2001年
ツアー通算 11勝
シングルス 11勝
ダブルス 0勝
生涯通算成績 350勝250敗
シングルス 321勝213敗
ダブルス 29勝37敗
生涯獲得賞金 $6,721,560
4大大会最高成績・シングルス
全豪 ベスト8(1995)
全仏 準優勝(1999)
全英 4回戦(1994)
全米 ベスト8(1993)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 4位(1994年5月16日)
ダブルス 185位(1993年7月5日)

アンドレイ・メドベデフウクライナ語Андрій Медведєв; ラテン文字表記:Andriy Medvedev, 1974年8月31日 - )は、ウクライナキエフ出身の男子プロテニス選手。1999年全仏オープン男子シングルス準優勝者。シングルス自己最高ランキングは4位。ATPツアーでシングルス11勝を挙げた。ダブルス優勝はない。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。身長193cm、体重93kgの長身選手。

来歴

母親の手ほどきで、8歳からテニスを始める。姉のナタリア・メドベデワ英語版もプロテニス選手で、WTAツアーで世界ランキング23位を記録した。1986年4月26日に発生したチェルノブイリ原子力発電所事故により、同国内でテニスの屋外練習を続けていた当時11歳の彼や姉が健康上の影響を被った、という説も語られている。

1991年にプロ入りした。4大大会は1992年全仏オープンで初出場し、いきなり4回戦まで進出する。1992年6月のヒポ・グループ・テニス国際でツアー初優勝を果たす。1993年全仏オープンでベスト4進出、準決勝でセルジ・ブルゲラに敗れる。ブルゲラには翌1994年の同大会でも、準々決勝で敗れた。モンテカルロ・マスターズハンブルク・マスターズで優勝し1994年5月16日付のランキングで自己最高のシングルス4位を記録している。

それからしばらく低迷期が続き、1999年全仏オープンでは世界ランキング100位から決勝に進出した。これは同大会の男子シングルス決勝進出者でも、史上最低順位の記録である。その決勝戦では第13シードのアンドレ・アガシから最初の2セットを6-1, 6-2で奪ったが、第3セットの土壇場からアガシが反撃を開始し、メドベデフは後半の3セットを4-6, 3-6, 4-6で落として準優勝に終わった。アガシはこの優勝により、宿願のキャリア・グランドスラム達成した。この年の全仏オープンは期間中の雨が多く、メドベデフは“最も遅いクレーコート”の得意な選手として勝ち上がったと言われた。

メドベデフは2001年のシーズンを最後に現役を引退し、サンクトペテルブルク・オープンが最後の試合になった。

ATPツアー決勝進出結果

シングルス: 18回 (11勝7敗)

大会グレード
グランドスラム (0-1)
テニス・マスターズ・カップ (0-0)
ATPマスターズシリーズ (4-1)
ATPインターナショナルシリーズ・ゴールド (3-0)
ATPインターナショナルシリーズ (4–5)
サーフェス別タイトル
ハード (2–0)
クレー (9-5)
芝 (0-1)
カーペット (0-1)
結果 No. 決勝日 大会 サーフェス 対戦相手 スコア
優勝 1. 1992年6月21日 ジェノア クレー ギリェルモ・ペレス=ロルダン 6–3, 6–4
優勝 2. 1992年7月19日 シュトゥットガルト クレー ウェイン・フェレイラ 6–1, 6–4, 6–7(5), 2–6, 6–1
優勝 3. 1992年9月20日 ボルドー クレー セルジ・ブルゲラ 6–3, 1–6, 6–2
優勝 4. 1993年4月4日 エストリル クレー カレル・ノバチェク 6–4, 6–2
優勝 5. 1993年4月11日 バルセロナ クレー セルジ・ブルゲラ 6–7(7), 6–3, 7–5, 6–4
準優勝 1. 1993年6月20日 ハレ アンリ・ルコント 2–6, 3–6
優勝 6. 1993年8月22日 ニューヘイブン ハード ペトル・コルダ 7–5, 6–4
準優勝 2. 1993年11月7日 パリ カーペット (室内) ゴラン・イワニセビッチ 4–6, 2–6, 6–7(2)
準優勝 3. 1994年4月3日 エストリル クレー カルロス・コスタ 6–4, 5–7, 4–6
優勝 7. 1994年4月24日 モンテカルロ クレー セルジ・ブルゲラ 7–5, 6–1, 6–3
優勝 8. 1994年5月8日 ハンブルク クレー エフゲニー・カフェルニコフ 6–4, 6–4, 3–6, 6–3
準優勝 4. 1994年8月7日 プラハ クレー セルジ・ブルゲラ 3–6, 4–6
優勝 9. 1995年5月14日 ハンブルク クレー ゴラン・イワニセビッチ 6–3, 6–2, 6–1
準優勝 5. 1996年7月14日 ボースタード クレー マグヌス・グスタフソン 1–6, 3–6
優勝 10. 1996年8月25日 ロングアイランド ハード マルティン・ダム 7–5, 6–3
優勝 11. 1997年5月11日 ハンブルク クレー フェリックス・マンティーリャ 6–0, 6–4, 6–2
準優勝 6. 1998年7月12日 ボースタード クレー マグヌス・グスタフソン 2–6, 3–6
準優勝 7. 1999年6月6日 全仏オープン クレー アンドレ・アガシ 6–1, 6–2, 4–6, 3–6, 4–6

ダブルス: 1回 (0勝1敗)

結果 No. 決勝日 大会 サーフェス パートナー 対戦相手 スコア
準優勝 1. 1999年11月8日 モスクワ カーペット (室内) マラト・サフィン ジャスティン・ギメルストブ
ダニエル・バチェク
2–6, 1–6

4大大会シングルス成績

略語の説明
 W   F  SF QF #R RR Q# LQ  A  Z# PO  G   S   B  NMS  P  NH

W=優勝, F=準優勝, SF=ベスト4, QF=ベスト8, #R=#回戦敗退, RR=ラウンドロビン敗退, Q#=予選#回戦敗退, LQ=予選敗退, A=大会不参加, Z#=デビスカップ/BJKカップ地域ゾーン, PO=デビスカップ/BJKカッププレーオフ, G=オリンピック金メダル, S=オリンピック銀メダル, B=オリンピック銅メダル, NMS=マスターズシリーズから降格, P=開催延期, NH=開催なし.

大会 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 通算成績
全豪オープン A 3R A QF 2R 4R 2R 2R 1R 2R 13–8
全仏オープン 4R SF QF 4R 2R 4R 1R F 4R 1R 29–10
ウィンブルドン A 2R 4R 2R 1R 3R 2R 2R 1R 1R 9–9
全米オープン A QF 2R 2R 4R 1R 2R 4R A A 13–7

外部リンク


アンドレイ・ メドベデフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/05/25 13:51 UTC 版)

 アンドレイ・メドベデフ
基本情報
ラテン文字名 Andriy Medvedev
国籍 ウクライナ
出身地 同・キエフ
生年月日 1974年8月31日(35歳)
身長 193cm
体重 93kg
利き手
バックハンド 両手打ち
ツアー経歴
デビュー年 1991年
引退年 2001年
ツアー通算 11勝
シングルス 11勝
ダブルス 0勝
生涯通算成績 350勝250敗
シングルス 321勝213敗
ダブルス 29勝37敗
4大大会最高成績・シングルス
全豪 ベスト8(1995)
全仏 準優勝(1999)
全英 4回戦(1994)
全米 ベスト8(1993)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 4位
ダブルス 185位
  

アンドレイ・メドベデフウクライナ語Андрій Медведєв(アンドリー・メドヴェージェウ); ラテン文字表記:Andriy Medvedev, 1974年8月31日 - )は、ウクライナキエフ出身の男子プロテニス選手。1999年全仏オープン男子シングルス準優勝者。シングルス自己最高ランキングは4位。ATPツアーでシングルス11勝を挙げる(ダブルス優勝はない)。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。身長193cm、体重93kgの長身選手。

母親の手ほどきで、8歳からテニスを始める。姉のナタリア・メドベデワもプロテニス選手で、女子ツアーで世界ランキング23位を記録した有名選手である。1986年4月26日に発生したチェルノブイリ原発爆発事故により、同国内でテニスの屋外練習を続けていた当時11歳の彼や姉が健康上の影響を被った、という説も語られている。

1991年にプロ入りした。1993年全仏オープンでベスト4進出、準決勝でセルジ・ブルゲラに敗れる。ブルゲラには翌1994年の同大会でも、準々決勝で敗れた。それからしばらく低迷期が続き、1999年全仏オープンでは世界ランキング100位から決勝に進出した。これは同大会の男子決勝進出者でも、史上最低順位の記録である。その決勝戦では第13シードのアンドレ・アガシから最初の2セットを 6-1, 6-2 で奪ったが、第3セットの土壇場からアガシが反撃を開始し、メドベデフは後半の3セットを 4-6, 3-6, 4-6 で落として準優勝に終わった。アガシはこの優勝により、宿願の4大大会完全制覇を達成した。この年の全仏オープンは期間中の雨が多く、メドベデフは“最も遅いクレーコート”の得意な選手として勝ち上がったと言われた。

メドベデフは2001年のシーズンを最後に現役を引退し、ロシアサンクトペテルブルクの室内コートの大会が最後の試合になった。

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