アロー戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/26 15:32 UTC 版)
北京条約
1860年、連合軍は北京を占領し、10・11月にロシア公使ニコライ・イグナチェフの調停の下に、英仏遠征軍司令官と恭親王との間に北京条約が締結された。この条約により清は、天津の開港、イギリスに対し九竜半島の割譲、中国人の海外への渡航許可などを認めさせられた。最後の渡航許可というのは中国人労働者を劣悪な条件で移民させる苦力貿易を公認するものである。この条項は労働者移民の公認と、それによる一定の移民保護を目的に入れられたとされる。
更に調停に入ったロシアに対しても、1858年にロシア帝国東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーが締結したアイグン条約以後の2年間は清露両国の雑居地であった外満洲(現在の沿海州)を、正式に譲る事になった。特に、ロシアが沿海地方に軍港ウラジオストックを建設してロシア太平洋艦隊を常駐させ、シベリア鉄道建設によって大規模な兵の陸送を迅速化させようと計画したため、日露戦争の原因ともなった。その後もロシア革命時のシベリア出兵(1919年)では極東共和国の帰属を巡って日露間で紛争地となった。
関連画像
-
天津条約の締結
-
フランス軍総司令官モントバンの指揮(1860年)
-
従軍したフランス兵に贈られた中国戦線従軍記念章Médaille_commémorative_de_l'expédition_de_Chine_
日本への影響
1856年の夏に、日米和親条約の規定に基づき、アメリカ合衆国の領事であるタウンゼント・ハリスが、伊豆の下田に着任した。ハリスは、日米修好通商条約の締結に当たって、アロー戦争とインド大反乱を引き合いにしつつ、イギリスが日本に出兵する可能性をほのめかして、江戸幕府に圧力をかけた。
脚注
注釈
出典
アロー戦争と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- アロー戦争のページへのリンク