八里橋の戦いとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 八里橋の戦いの意味・解説 

八里橋の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/02 23:32 UTC 版)

八里橋の戦い

橋前へ進攻したフランス軍、ロンドン・ニュース
戦争アロー戦争
年月日:1860年9月21日[1]
場所北京八里橋
結果イギリス軍フランス軍の大勝
交戦勢力
大清帝国 イギリス
フランス帝国(第二帝政)
指導者・指揮官
センゲリンチン ホープ・グラント英語版
シャルル・クーザン=モントバン
アロー戦争

八里橋の戦い(はちりきょうのたたかい)は、北京に程近い戦場で発生したアロー戦争での戦いの1つである。当時の戦況は清軍劣勢で、清軍は大沽砲台より敗走していたが、英仏の西洋軍の歩調は速く、清軍の直前まで進軍していた。1860年9月、八里橋での戦闘がはじまり、最終的にイギリス軍フランス軍が勝利した。八里橋が陥落したことにより、北京への道が開けた。

イギリスとフランス軍は、当時としては最新の武器であるアームストロング砲斉射戦術を使用して[2]、清軍の騎兵隊を打ち払った。戦闘は瞬く間に終了し、清朝の咸豊帝熱河避暑山荘へ逃亡した。

クーザン=モントバンはその後10月12日に北京を占領し[3]、1862年にフランス皇帝ナポレオン3世によりパリカオ伯爵(「パリカオ」は八里橋に由来)に叙された[4]

脚注

  1. ^ “第十三章 八里桥战役(1)” (中国語). 新浪读书. 22 March 2008. 2011年7月29日閲覧.
  2. ^ (中国語)第十三章 八里桥战役(2)”. 新浪读书 (2008年3月22日). 2011年7月29日閲覧。
  3. ^ パリカオ」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』https://kotobank.jp/word/%E3%81%B1%E3%82%8A%E3%81%8B%E3%81%8Aコトバンクより2025年9月20日閲覧 
  4. ^ Chisholm, Hugh, ed. (1911). “Palikao, Charles Guillaume Marie Appollinaire Antoine Cousin Montauban, Comte de” . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 20 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 632.



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「八里橋の戦い」の関連用語

八里橋の戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



八里橋の戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの八里橋の戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS