リビア内戦
別名:リビア内乱、リビア騒乱、2011年リビア内戦、2011年リビア騒乱
英語:2011 Libyan civil war
北アフリカのリビアで長期独裁政権を維持してきたカダフィ政権に対して反対勢力が蜂起し、発生した内乱。
2010年から2011年にかけて、チュニジアやエジプトで期独裁政権が打倒されたことなどを背景に、カダフィ大佐による独裁政権下にあるリビアでも、政権打倒の機運が高まっていた。2011年2月に反カダフィ派による反政府デモが起こり、次第に武力衝突に発展していった。
2011年9月6日現在、まだ抗争は続いているが、すでにリビアの首都トリポリは反カダフィ勢力によって制圧され、政治犯・思想犯を収容していたリビア最大の刑務所施設「アブ・サリーム刑務所」も開放されるなど、実質的にカダフィ政権は崩壊したと見なされている。
カダフィ大佐の行方は、9月6日現在、分っていない。リビア西部のオアシス都市「バニワリード」に潜伏しているとも、あるいは隣国ニジェールへ亡命したとも言われている。
2011年リビア内戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/11 13:18 UTC 版)
2011年リビア内戦(2011ねんリビアないせん)は、リビアにおいて2011年に起こった政治社会的要求を掲げた反政府デモを発端とする大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国とリビア国民評議会などの反政府勢力の間で勃発した内戦である。アラブ圏に於いては「2月17日革命」(ثورة 17 فبراير)と呼ばれる。
- 1 2011年リビア内戦とは
- 2 2011年リビア内戦の概要
2011年リビア内戦
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「ムスタファ・アブドルジャリル」の記事における「2011年リビア内戦」の解説
反政府運動の最中の2011年2月21日、個人新聞クリナ(英語版)(現在はYosberidesに改名)が、「反政府運動に対し、必要以上の暴力を使用した」という理由で法務大臣を辞任したと報じた。 2月22日、スウェーデンの新聞「Expressen」のインタビュー記事にて、1988年のパンアメリカン航空103便爆破事件はカッザーフィーが直接指令したと述べた。2月24日にはアルジャジーラに対し、リビアのエイズ感染事件の責任は完全にカッザーフィー政権にあると発言。 その後ベンガジへ向かい、2月24日には野党政治家、元陸軍士官、そして東部の都市アルバイダの部族長を交えた会合を主宰した。2月26日、ベンガジを拠点とする反カザフィの暫定政権「リビア国民評議会」の設立を宣言した。 アブドルジャリル自身の知名度もあって、3月5日には周辺の自治政権からも革命派のリーダーとして認められるようになった。 8月22日、リビア国民評議会は首都トリポリをほぼ制圧。8月24日にはカダフィの本拠地であるトリポリのバーブ・アジジャ地区も陥落させ、この結果、カダフィ政権は崩壊した。アブドルジャリルは国民評議会の本部をトリポリに移し、速やかな政権移行をはかることとなった。 2012年7月には国民議会選挙が実施され、正式政府発足への道筋をつけた後の8月8日にリビア国民評議会は解散。国民議会のムハンマド・アリー・サリーム暫定議長に形式的にではあるが権限を移譲した。
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2011年リビア内戦 (第一次リビア内戦)
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「2014年リビア内戦」の記事における「2011年リビア内戦 (第一次リビア内戦)」の解説
詳細は「2011年リビア内戦」を参照 2010年末から2011年初頭にかけて起きたチュニジアでのジャスミン革命やエジプトでのエジプト革命などのアラブの春に触発され、リビアにおいても1969年以来、41年間というアフリカ諸国最長の政権を維持する最高指導者ムアンマル・アル=カッザーフィー(以下カダフィ大佐)に対する退陣要求が高まった。反政府デモは元々反カダフィ感情が強かったキレナイカ地方のベンガジを中心に武装蜂起にまで発展し、カダフィ政権側も航空機や重火器を使用した武力鎮圧を試みたため、2月15日には本格的な武力衝突に発展した。閣僚や軍、国外の外交官からもカダフィ政権からの離反が相次ぎ、2月27日にはカダフィ政権下で司法書記を務めたムスタファ・アブドルジャリルを中心に反体制組織リビア国民評議会が設立され、カダフィ政権を見限った国々からもリビアの正当政権の承認を受た事で、リビアでは同年8月後半にカダフィ政権が崩壊するまでの約半年間、カダフィ大佐率いるトリポリ政府と国民評議会側のベンガジ政府が並立する事となる。評議会軍側は軍事面でも地方都市を次々に掌握し、一時は首都トリポリを包囲するに至るが、軍事的に未熟で装備で劣る事に加え、カダフィ政権側が精鋭部隊を投入した事で戦闘でも徐々に劣勢に追い込まれ、3月10日ごろから後退を余儀なくされた。政府軍は11日には西部のザウィヤ、14日には同じくズワラと評議会軍を各個撃破し、15日までには西部のほぼ全域・石油基地をすべて奪還した。政権側の攻勢により形勢は逆転し、カダフィ大佐が国民評議会側の根拠地ベンガジへの総攻撃を宣言するが、3月19日、フランスが軍事介入を宣言し、米英仏を中心としたNATO軍がカダフィ政府軍への空爆を開始、アメリカ軍の「オデッセイの夜明け作戦」によりトマホーク巡航ミサイルが100発以上発射された。これに対し、カダフィ大佐は直後に国営放送で演説し、国民に対し徹底抗戦を呼びかけた。暫くは戦況が膠着したが、NATO軍による継続的な軍事支援で形勢は再び国民評議会軍側に傾き、同年8月23日に首都トリポリがNATO軍の支援を受けた反体制派のリビア国民評議会の攻勢によって陥落し、カダフィ大佐が率いる大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国は事実上崩壊した。その後もカダフィ大佐は拠点をスルトに移し抗戦を続けたが、9月21日には南部サブハ、10月17日はバニワリード、そして10月20日に最後の拠点スルトが陥落し、カダフィ大佐自身も戦死した事で1969年以来続いた大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国は名実ともに終焉し、10月23日に国民評議会によりリビア全土の解放が唱えられ内戦終結が宣言された。
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