1847年 南部三閉伊一揆 遠野強訴
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「三閉伊一揆」の記事における「1847年 南部三閉伊一揆 遠野強訴」の解説
南部藩藩主南部利済と家老横沢兵庫は、租税を前納させたり、大土木事業を起して幕府の耳に入るとこれを壊したり、巨額を投資した事業をあっさり廃棄したり、盛岡に遊廓を造ったりした。これらの悪政により、財政は困窮し、天保 8年(1837年)から東海岸三閉伊通りの海産業に対し重税や御用金を課した。また、天保10年(1839年)から以後5年間、「軒別税」という人頭税を課した。「軒別税」は天保 8年(1837年)に一揆をした南方を避け、産業の盛んな東海岸にかけた。この「軒別税」の徴収中は、他の新税は一切賦課しない約束だったが、藩は1年に3,4回新税をかけ、さらに御用金を徴収した。そして、前年の御用金をも納めていない弘化4年(1847年)10月。藩は再度六万両の御用金を賦課した。中でも三閉伊通りの額が他より多かった。 一揆は11月から浜岩泉村牛切(現田野畑村)の牛方弥五兵衛総指揮の下に行われた。弥五兵衛は半生をかけて盛岡藩全域を海産物や塩荷駄を運びながら、全領一揆を説いて歩いた人物である。弥五兵衛総指揮の下、総勢1万2千人余りは盛岡藩筆頭家老南部弥六郎の領地遠野に到着。弥五兵衛は盛岡から来た家老を拒否し、遠野南部家に対して新たに課された御用金の撤廃をはじめとする26ヶ条の要求を提出した。これに対し遠野南部家は御用金の全免をはじめとして12ヶ条を許可し、後は追って調査の上許可するであろうと回答した。一揆は遠野南部家から帰路の食料を支給されるという異例の扱いを受け帰村した。しかし、この成果が不完全なものだと見抜いた弥五兵衛は、この日から新たに一揆の勧誘で各村を回った。一揆後の藩の対応は家老横沢兵庫は罷免。藩主南部利済は隠居となった。しかし、一揆首謀者の探索が行われ、弥五兵衛を捕縛し嘉永2年(1849年)5月、斬殺した。捕縛を行った隠密同心工藤乙之助は石川啄木の曽祖父である。その翌月には利済は藩主位を譲っていた長男南部利義が江戸滞在中に南部土佐を派遣して退位するように圧力をかけて、11月に退位させ、南部利剛を相続させて院政を開始し、利義廃位反対派を弾圧したのであった。
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