1847年 南部三閉伊一揆 遠野強訴とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 1847年 南部三閉伊一揆 遠野強訴の意味・解説 

1847年 南部三閉伊一揆 遠野強訴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/28 22:45 UTC 版)

三閉伊一揆」の記事における「1847年 南部三閉伊一揆 遠野強訴」の解説

南部藩藩主南部利済家老横沢兵庫は、租税前納させたり、大土事業起し幕府耳に入るとこれを壊したり、巨額投資した事業をあっさり廃棄したり、盛岡遊廓造ったりした。これらの悪政により、財政困窮し天保 8年1837年)から東海岸閉伊通り海産業に対し重税御用金課したまた、天保10年1839年)から以後5年間、「軒別税」という人頭税課した。「軒別税」は天保 8年1837年)に一揆をした南方避け産業盛んな東海岸にかけた。この「軒別税」の徴収中は、他の新税は一切賦課しない約束だったが、藩は1年3,4回新税をかけ、さらに御用金徴収した。そして、前年御用金をも納めていない弘化4年1847年10月。藩は再度万両御用金賦課した。中でも閉伊通りの額が他より多かった一揆11月から浜岩泉牛切(現田野畑村)の牛方弥五兵衛総指揮の下に行われた。弥五兵衛半生をかけて盛岡藩全域海産物や塩荷駄運びながら、全領一揆説いて歩いた人物である。弥五兵衛総指揮の下、総勢1万2千人余り盛岡藩筆頭家老南部六郎領地遠野到着。弥五兵衛盛岡から来た家老拒否し遠野南部家に対して新たに課され御用金撤廃はじめとする26ヶ条の要求提出した。これに対し遠野南部家御用金の全免をはじめとして12ヶ条を許可し、後は追って調査の上許可するであろう回答した一揆遠野南部家から帰路食料支給されるという異例扱いを受け帰村した。しかし、この成果不完全なものだと見抜いた弥五兵衛は、この日から新たに一揆勧誘で各回った一揆後藩の対応家老横沢兵庫罷免藩主南部利済隠居となった。しかし、一揆首謀者探索が行われ、弥五兵衛捕縛し嘉永2年1849年5月斬殺した。捕縛行った隠密同心工藤乙之助は石川啄木曽祖父である。その翌月には利済は藩主位を譲っていた長男南部利義江戸滞在中に南部土佐派遣して退位するように圧力をかけて、11月退位させ、南部利剛相続させて院政開始し、利義廃位反対派弾圧したであった

※この「1847年 南部三閉伊一揆 遠野強訴」の解説は、「三閉伊一揆」の解説の一部です。
「1847年 南部三閉伊一揆 遠野強訴」を含む「三閉伊一揆」の記事については、「三閉伊一揆」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「1847年 南部三閉伊一揆 遠野強訴」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「1847年 南部三閉伊一揆 遠野強訴」の関連用語

1847年 南部三閉伊一揆 遠野強訴のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



1847年 南部三閉伊一揆 遠野強訴のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの三閉伊一揆 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS