1848/1850年欽定憲法による設立
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「プロイセン議会」の記事における「1848/1850年欽定憲法による設立」の解説
1848年革命(3月革命)の中、プロイセン王国では国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が自由主義勢力と妥協し、自由主義内閣を任命してプロイセン国民議会(ドイツ語版)を設置させた。しかし1848年夏以降革命の機運は衰退へ向かい、11月には自由主義内閣は解任されて保守派内閣に戻り、革命弾圧が推し進められた。ベルリンは軍によって占領され、12月5日にはプロイセン国民議会も停会させられた。 同時に自由主義者の不満のガス抜きをする必要があると感じたフリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、国民議会停会の日に自由主義的な条項を含む欽定憲法(ドイツ語版)を制定した。その中で男子普通選挙によって選出された議員から構成される「第二院(Zweite Kammer)」と高額納税者の互選で選出された議員から構成される「第一院(Erste Kammer)」の二院制議会が定められた。他方、首相・官僚・軍隊の任免や統帥権は国王が握り、議会がそれに干渉することは許されないものとされた。それによって国王専制政治の本質を守る内容になっていた。
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