音楽と影響力
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「パウル・ホーフハイマー」の記事における「音楽と影響力」の解説
ホーフハイマーは即興演奏の輝かしい才能に恵まれ、当時は並び立つ者がいなかった。繰り返しなしで数時間演奏し続けることができたという。ホーフハイマーはオルガン奏者であっただけでなく、オルガン教師としても傑出した存在であった。ドイツのあらゆる有名なオルガン楽派は、もとを辿ればホーフハイマーに行き着くのである。しかもホーフハイマーはイタリアでもオルガン教師を務めている。たとえば門人ディオニシオ・メムノは、ヴェネツィアの聖マルコ大聖堂のオルガニストになり、ホーフハイマーに学んだ演奏技巧を初期のヴェネツィア楽派に伝えた。 作品数としてはオルガン曲が最も多いが、作品のうち原曲のまま伝承されている作品は数少ない。現存する作品は、3声か4声のリートや、それらを鍵盤楽器やリュートのために編曲したもの(インタヴォラトゥーラという)がほとんどである。ホーフハイマーのリートの写譜は、たいていは編曲版で、ヨーロッパ各地に伝えられており、その人気の高さを物語っている。現存する数少ないオリジナルのオルガン曲は、ホーフハイマーの定旋律を軸としたポリフォニー構成の能力の高さを明かしている。 ホーフハイマーのドイツ・リートは、当時としては典型的なバール形式によっており、ポリフォニックな楽節とホモフォニックな楽節の交替で出来ている。ホーフハイマーは、当時フランドル楽派の影響でヨーロッパで主流となりつつあった通模倣様式を採ることはめったになかったが、インスブルックでイザークの作品と出逢った時に、その作曲様式を知ったかもしれない。 ホーフハイマーはオルガン鑑定人としても名高く、しばしばオルガンの建造や修復について助言した。
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音楽と影響力
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「ジャック・モーデュイ」の記事における「音楽と影響力」の解説
モーデュイは、「韻律音楽」という比較的新しい作曲様式でシャンソンを量産した。この様式では、フランス語の抑揚に応じてリズム(音価)が厳密に規定され、典型的な例を挙げると、アクセントのある音節が2に対してアクセントなしの音節が1というように、音符の長さが固定されている。モーデュイはクロード・ル・ジュヌほどの名声を獲得することはできなかった。これはモーデュイ自身が全作品の刊行を確約しながら、その達成に行き詰まったせいもあろう。モーデュイの作曲様式は単純で明晰であり、歌詞に変更を加えず曲付けを行なっているが、たいてい多彩な和声法によって作品に多様な変化をつけている。 《ピエール・ド・ロンサールのためのレクィエム》(1585年)は5声の作品だが、モーデュイの最初の出版作品である《ジャン=アントワーヌ・ド・バイーフの定量シャンソネット集 Chansonnettes mesurées de Jean-Antoine de Baïf 》(1586年)は4声のための作品である。これは「韻律音楽」のみによる最初の曲集であった。16世紀後半の作品はほとんどが失われてしまったと推測されている。 モーデュイは、独唱とリュート伴奏によるエール・ド・クールの作曲家でもあり、また92人の歌手と45人の器楽奏者によるバレエ音楽《 La déliverance de Renaud 》(1617年上演)の作曲者でもある。メルセンヌが触れた作品のうち、300曲の詩篇唱、晩課集、テネブレ、104曲のイムヌス、ミサ曲、モテットは散逸している。 モーデュイは17世紀になっても「韻律音楽」の技法を使い続けた。元からそのような意図があったわけではないにせよ、歌手と器楽をいくつかのグループに分割しており、さしずめヴェネツィア楽派の流儀で複合唱の技法を用いたのかもしれない。メルセンヌは、イングランド流儀のヴァイオル・コンソートをフランスに導入した人物ともみなしており、ヴィオールに第6弦を加えたのもモーデュイであると主張している。
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