静岡事件
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静岡事件(しずおかじけん)は、1886年(明治19年)、自由民権運動のなかで静岡その他で発生した激化事件である[1]。自由党の壮士らが明治政府転覆、高官暗殺を企て、約2年間にわたり、軍資金調達のため強盗を行ない、逮捕処罰された[2]。
概略
中心人物は、静岡の湊省太郎、山岡音高、浜松の中野二郎三郎、愛知・岐阜の広瀬重雄、小池勇らである[3]。目標は政府顛覆であった[3][4]。彼らは資金確保と組織の強化を目的とした銀行強盗を引き起こした[3]。日本各地での一斉蜂起が当初の目的であったが、政府による鎮圧が相次ぎ、1884年に湊、広瀬、小池が飯田事件で逮捕されたこと(のち放免)をきっかけに[5]、挙兵を断念して少数の者による大臣などの要人の暗殺に方針を転じた[3]。計画は、伊藤博文首相以下各大臣を箱根離宮の落成式で鏖殺しようというものだった[6]。
警視庁による事件関係者の一斉検挙が始まり[5]、東京での要人暗殺計画は未然に発覚し、関わったメンバーは逮捕された[3]。司法当局は政治犯ではなく強盗犯として扱い、1887年7月に被告25人に対し、最高で徒刑15年の判決が言い渡された[3]。
1897年(明治30年)1月、英照皇太后死去に際しての[要出典]大赦減刑に浴し、山岡音高ら8名は出獄することができた[4]。
首謀者
山岡音高は出所後アメリカ・シアトルに移住し、そこで東洋貿易会社という企業を設立して事業をおこなうかたわら、ワシントン日本人会会長など、シアトルの日本人社会で要職を務めた[4]。山岡の子息が、極東国際軍事裁判で弁護人を務めたジョージ山岡である[4]。
広瀬重雄(1859年生、旧姓藪)は幕臣の藪七郎左衛門の子として生まれ、静岡の小学校教諭を経て東京に遊学、自由民権運動に触れ、1879年に静岡県士族・広瀬秀雄の養子となって家督を継ぎ、事件当時は地元紙の記者の傍ら愛知・岐阜県下で政治演説会を開いていた[5][7]。当時、養家広瀬家の娘たちは森有礼、磯野計の妻であったが、事件後、姉は離婚、妹は急死した[7]。1897年に広瀬も英照皇太后死去の恩赦で釈放され、司法大臣清浦奎吾による黒田清隆総理代理への上申により広瀬ら13名の公権回復も認められた[5]。
湊省太郎(1862-1896)は旧幕臣の長男として生まれ、静岡県庁を退職して岳南自由党に入って自由民権運動に関わった。恩赦の前年に獄中死した[8]。
脚注
- ^ 静岡事件 - コトバンク
- ^ 手塚豊「自由党静岡事件裁判小考」『法學研究 : 法律・政治・社会』第40巻第5号、慶應義塾大学法学研究会、1967年5月、1-60頁、ISSN 0389-0538、NAID 120006366972。
- ^ a b c d e f 静岡事件 - 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク)
- ^ a b c d 黒川勝利「シアトル最初期の日系市民運動」『岡山大学経済学会雑誌』第42巻第2号、岡山大学経済学会、2010年9月、49-67頁、doi:10.18926/OER/51907、ISSN 03863069、NAID 120005350202。
- ^ a b c d 寺崎修「自由民権運動史上の広瀬重雄」『法学研究』第73巻第1号、慶應義塾大学法学研究会、2000年1月、167-191頁、ISSN 03890538、NAID 110000333872。
- ^ 静岡事件と浜松 浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ 浜松市史 三
- ^ a b 『女たちの明治維新』鈴木由紀子、2010年07月、p186
- ^ 湊省太郎(読み)みなと しょうたろう コトバンク
静岡事件
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詳細は「静岡事件」を参照 1883年10月13日、磐田郡見附宿(現・磐田市)附近の劇場で「国民の義務」という論題で演説中、警察官から中止命令を受ける。これをきっかけとして、10月19日、静岡県令大迫貞清から県内での1年間の演説禁止処分を受ける。さらに10月26日、集会条例に基づく内務卿山田顕義の指令により、大迫県令から全国での1年間の演説禁止処分を受けたことで、政府転覆を決意する。 1883年末あるいは1884年(明治17年)初頭、湊省太郎、真野真恷、鈴木辰三、西村藤三郎らと政府転覆の盟約を結び、その後に浜松の中野二郎三郎を同志とする。1884年3月、中野二郎三郎とともに、東京で開かれた自由党大会に参加し、のちに加波山事件に参加する富松正安・仙波兵庫らや、群馬事件に参加する深井卓爾・伊賀我何人らと連絡を取り合う。 1884年7月13日、湊省太郎、宮本鏡太郎、広瀬重雄、村上佐一郎らと協議し、挙兵のための軍資金集めと同志の脱落および秘密の漏洩を防ぐために強盗の実行を決定、ただちに実行に移す。しかし、思うように資金が集まらず、しかも10月には加波山事件・秩父事件が相次いで発生し、さらに12月には飯田事件・名古屋事件の関係者が相次いで検挙されたため、12月末には強盗を中止した。1885年(明治18年)10月頃から湊省太郎らは挙兵計画を要人暗殺に切り替えることを主張、鈴木音高はこれに反対し、急速に指導力を失っていく。なお、事件の首謀者は鈴木音高とされることが多いが、原口清は、挙兵計画と暗殺計画はもともと別個に進められたもので、事件の首謀者は音高ではなく湊省太郎だった、と主張している。 1886年(明治19年)6月11日、警視庁が東京府京橋区で湊省太郎を逮捕したのを皮切りに、翌12日から東京府下で事件関係者の一斉検挙が行われた。音高も12日に逮捕されている(静岡事件)。 この事件は自由民権運動最後の激化事件となったが、政府は内乱罪の適用を意図的に回避し、関係者は国事犯ではなく強盗犯として裁かれた。音高は1887年(明治20年)7月13日東京重罪裁判所で有期徒刑14年の判決を受ける。石川島監獄署、東京仮留監を経て、1888年(明治21年)10月13日、他の事件関係者とともに北海道空知監獄署に押送された。 入獄中の1893年(明治26年)2月14日、山岡家に復籍した。 1897年(明治30年)1月31日、英照皇太后の死去にともなう大赦のため刑期4分の1を減刑される。この時点でも、静岡事件関係者のうち山岡音高・宮本鏡太郎・鈴木辰三・中野二郎三郎の4人はまだ刑期を残していたが、司法大臣清浦奎吾の特赦申請により、7月12日に特赦放免され、公民権を回復した。
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