静岡事件とは? わかりやすく解説

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しずおか‐じけん〔しづをか‐〕【静岡事件】

読み方:しずおかじけん

明治19年(1886)静岡の旧自由党員を中心とする政府転覆計画発覚し、百余名検挙され事件自由民権運動最後反乱計画


静岡事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/15 07:45 UTC 版)

静岡事件(しずおかじけん)は、1886年明治19年)、自由民権運動のなかで静岡その他で発生した激化事件である[1]自由党壮士らが明治政府転覆、高官暗殺を企て、約2年間にわたり、軍資金調達のため強盗を行ない、逮捕処罰された[2]

概略

中心人物は、静岡の湊省太郎、山岡音高、浜松の中野二郎三郎、愛知・岐阜の広瀬重雄、小池勇らである[3]。目標は政府顛覆であった[3][4]。彼らは資金確保と組織の強化を目的とした銀行強盗を引き起こした[3]。日本各地での一斉蜂起が当初の目的であったが、政府による鎮圧が相次ぎ、1884年に湊、広瀬、小池が飯田事件で逮捕されたこと(のち放免)をきっかけに[5]、挙兵を断念して少数の者による大臣などの要人の暗殺に方針を転じた[3]。計画は、伊藤博文首相以下各大臣を箱根離宮の落成式で鏖殺しようというものだった[6]

警視庁による事件関係者の一斉検挙が始まり[5]、東京での要人暗殺計画は未然に発覚し、関わったメンバーは逮捕された[3]。司法当局は政治犯ではなく強盗犯として扱い、1887年7月に被告25人に対し、最高で徒刑15年の判決が言い渡された[3]

1897年(明治30年)1月、英照皇太后死去に際しての[要出典]大赦減刑に浴し、山岡音高ら8名は出獄することができた[4]

首謀者

山岡音高は出所後アメリカ・シアトルに移住し、そこで東洋貿易会社という企業を設立して事業をおこなうかたわら、ワシントン日本人会会長など、シアトルの日本人社会で要職を務めた[4]。山岡の子息が、極東国際軍事裁判で弁護人を務めたジョージ山岡である[4]

広瀬重雄(1859年生、旧姓藪)は幕臣の藪七郎左衛門の子として生まれ、静岡の小学校教諭を経て東京に遊学、自由民権運動に触れ、1879年に静岡県士族・広瀬秀雄の養子となって家督を継ぎ、事件当時は地元紙の記者の傍ら愛知・岐阜県下で政治演説会を開いていた[5][7]。当時、養家広瀬家の娘たちは森有礼磯野計の妻であったが、事件後、姉は離婚、妹は急死した[7]。1897年に広瀬も英照皇太后死去の恩赦で釈放され、司法大臣清浦奎吾による黒田清隆総理代理への上申により広瀬ら13名の公権回復も認められた[5]

湊省太郎(1862-1896)は旧幕臣の長男として生まれ、静岡県庁を退職して岳南自由党に入って自由民権運動に関わった。恩赦の前年に獄中死した[8]

脚注

  1. ^ 静岡事件 - コトバンク
  2. ^ 手塚豊「自由党静岡事件裁判小考」『法學研究 : 法律・政治・社会』第40巻第5号、慶應義塾大学法学研究会、1967年5月、1-60頁、ISSN 0389-0538NAID 120006366972 
  3. ^ a b c d e f 静岡事件 - 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク)
  4. ^ a b c d 黒川勝利「シアトル最初期の日系市民運動」『岡山大学経済学会雑誌』第42巻第2号、岡山大学経済学会、2010年9月、49-67頁、doi:10.18926/OER/51907ISSN 03863069NAID 120005350202 
  5. ^ a b c d 寺崎修「自由民権運動史上の広瀬重雄」『法学研究』第73巻第1号、慶應義塾大学法学研究会、2000年1月、167-191頁、ISSN 03890538NAID 110000333872 
  6. ^ 静岡事件と浜松 浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ 浜松市史 三
  7. ^ a b 『女たちの明治維新』鈴木由紀子、2010年07月、p186
  8. ^ 湊省太郎(読み)みなと しょうたろう コトバンク

静岡事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 00:02 UTC 版)

鈴木音高」の記事における「静岡事件」の解説

詳細は「静岡事件」を参照 1883年10月13日磐田郡見附宿(現・磐田市附近劇場で「国民の義務」という論題演説中、警察官から中止命令を受ける。これをきっかけとして、10月19日静岡県大迫貞清から県内での1年間演説禁止処分を受ける。さらに10月26日集会条例に基づく内務卿山田顕義指令により、大迫県令から全国での1年間演説禁止処分受けたことで、政府転覆決意する1883年末あるいは1884年明治17年初頭、湊省太郎、真野真恷、鈴木辰三、西村藤三郎らと政府転覆盟約を結び、その後浜松中野二郎三郎同志とする。1884年3月中野二郎三郎とともに東京開かれた自由党大会参加し、のちに加波山事件参加する富松正安仙波兵庫らや、群馬事件参加する深井卓爾伊賀何人らと連絡取り合う1884年7月13日、湊省太郎、宮本鏡太郎広瀬重雄、村上佐一郎らと協議し挙兵のための軍資金集め同志脱落および秘密の漏洩を防ぐために強盗実行決定、ただちに実行に移す。しかし、思うよう資金が集まらず、しかも10月には加波山事件秩父事件相次いで発生し、さらに12月には飯田事件名古屋事件関係者相次いで検挙されたため、12月末には強盗中止した1885年明治18年10月頃から湊省太郎らは挙兵計画要人暗殺切り替えることを主張鈴木音高はこれに反対し、急速に指導力失っていく。なお、事件首謀者鈴木音高とされることが多いが、原口清は、挙兵計画暗殺計画はもともと別個に進められたもので、事件首謀者音高ではなく省太郎だった、と主張している。 1886年明治19年6月11日警視庁東京府京橋区で湊省太郎を逮捕したのを皮切りに、翌12日から東京府下で事件関係者の一斉検挙が行われた。音高12日逮捕されている(静岡事件)。 この事件自由民権運動最後激化事件となったが、政府内乱罪適用意図的に回避し関係者国事犯ではなく強盗犯として裁かれた。音高1887年明治20年7月13日東京重罪裁判所有期徒刑14年判決を受ける。石川島監獄署、東京仮留監を経て1888年明治21年10月13日、他の事件関係とともに北海道空知監獄署に押送された。 入獄中の1893年明治26年2月14日山岡家復籍した。 1897年明治30年1月31日英照皇太后死去にともなう大赦のため刑期4分の1減刑される。この時点でも、静岡事件関係者のうち山岡音高宮本鏡太郎鈴木三・中二郎三郎の4人はまだ刑期残していたが、司法大臣清浦奎吾特赦申請により、7月12日特赦放免され公民権回復した

※この「静岡事件」の解説は、「鈴木音高」の解説の一部です。
「静岡事件」を含む「鈴木音高」の記事については、「鈴木音高」の概要を参照ください。

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