関わった人物
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1878年(明治11年)に起きた紀尾井町事件の首謀者、石川県士族 島田一郎と同士族 長連豪(ちょうつらひで)が政治活動を志したのは事件の5年前、1871年(明治6年)の征韓論に関わりあった時であった。 明治維新は士族の没落をもたらし、家禄処分を断行した明治政府に対して各地の士族は不満を募らせた。このような不平士族の満ち溢れる中、1873年(明治6年)、征韓論で政府は分裂しこれを契機に士族の反乱、自由民権運動などの反政府活動が盛立を呈した。維新で名を挙げることのなかった石川県士族は、征韓論の台湾出兵という一連の動きに対して、杉村寛正・陸義猶を中心に左院に建白書を上提したり西郷従道に台湾出兵の従軍願を提出したりして、維新での加賀藩の鬱憤を晴らし石川県士族の名誉挽回を画策したが、予期したような結果が得られなかった。
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関わった人物
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前野良沢は翻訳作業の中心であったが、著者としての名は『解体新書』にない。一説には、良沢が長崎留学の途中で天満宮に学業成就を祈ったとき、自分の名前を上げるために勉学するのではないと約束したので名前を出すのを断ったという。また一説には、訳文が完全なものでないことを知っていたので、学究肌の良沢は名前を出すことを潔しとしなかったのだという。 杉田玄白は「私は多病であり年もとっている。いつ死ぬかわからない」と言って、訳文に不完全なところがあることは知りながら刊行を急いだ(『解体約図』の出版も玄白の意図であり、これに対して良沢は不快を示していたと言われている)。しかし彼は、当時としては長命の85歳まで生きた。 中川淳庵は『解体新書』刊行後も蘭語の学習を続け、桂川甫周と共にスウェーデンの博物学者カール・ツンベリーに教えを受けている。 桂川甫三は杉田玄白と同世代の友人。法眼の地位にあり、将軍の侍医を務めた。翻訳作業に直接関わった様子はないが、子の甫周を参加させた。また補助資料となる3冊のオランダ医学書を提供している。『解体新書』刊行の際、幕府の禁忌に触れる可能性があったため、甫三を通じて大奥に献上されている。 桂川甫周は甫三の子で、後に自身も法眼となる。翻訳作業の初期から関わったという。のちに大槻玄沢とともに蘭学の発展に貢献する。 その他に翻訳作業に関わった者は、巻頭に名前が出てくる石川玄常、『蘭学事始』に名前が出てくる烏山松圓、桐山正哲、嶺春泰などがいる。 吉雄耕牛(吉雄永章)はオランダ語通詞で、『解体新書』序文を書き、この書が良沢と玄白の力作であると賞揚している。 平賀源内は、1774年(安永3年)正月に杉田玄白宅を訪問、『解体新書』の本文の翻訳がほぼ完成し、解剖図の画家を捜していることを知らされた際、小田野直武を紹介した。 小田野直武は秋田藩角館の藩士、画家。平賀源内の紹介で『解体新書』の図版の原画を描くことになった。『解体新書』の開版まで半年という短期間に、江戸での最初の仕事で、しかも日本学術史上記録的な仕事を成し遂げた。
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