長沢松平氏とは? わかりやすく解説

長沢松平家

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/19 15:07 UTC 版)

長沢松平家(ながさわまつだいらけ)は、松平氏の庶流。十八松平のひとつ。


  1. ^ 松田敬之 2015, p. 689.
  2. ^ 子孫、幕臣500石。
  3. ^ 別名に親直。
  4. ^ 別名に忠甫。
  5. ^ 本家相続。母親は康忠の娘。ただし浪人。
  6. ^ 徳川家康七男。
  7. ^ 徳川家康六男。
  8. ^ 御家再興の嘆願書を江戸城大手門にわざと落として問題化させ、御家再興に成功した。ただし知行俸禄は無し。
  9. ^ 大河内秀綱次男。
  10. ^ 交代寄合松平郷松平家・松平尚澄三男。
  11. ^ 十人扶持
  12. ^ 講武所出仕。切米300俵→配地300石
  13. ^ 通称は平右衛門。文禄4年(1595年6月18日卒。墓は岡崎市岩津町の妙心寺。
  14. ^ 通称は八兵衛。文禄2年(1593年4月17日卒。墓は妙心寺。
  15. ^ 右京
  16. ^ 通称は甚兵衛(以降三代にわたり甚兵衛を称す)、筑後守、源心。越後高田藩松平忠輝家臣として清崎城代1万6千5百石。寛永5年(1628年5月17日卒。墓は新宿区四谷の西迎寺。
  17. ^ 甚五兵衛
  18. ^ 甚兵衛、孫三郎、筑後守、源雪。信宗の遺領を継ぐ。正保2年(1645年)11月15日卒。
  19. ^ 長澤。通称は平右衛門。
  20. ^ 甚兵衛、孫三郎。室は松平正直の娘。寛文11年(1671年3月17日卒。
  21. ^ 通称は五郎左衛門。貞享4年(1685年6月25日卒。墓は前橋市の大連寺
  22. ^ 通称・仙之助、孫三郎。元禄8年(1695年8月11日卒。
  23. ^ 甚之丞、左近。元禄元年(1688年9月29日卒。
  24. ^ 通称・小大夫(以降、子孫も小大夫を称す)。寛保2年(1742年11月5日卒。墓所:姫路市の善導寺。
  25. ^ 千之助、源七郎。元禄14年(1701年8月10日卒。
  26. ^ 孫次郎、甚兵衛。室は大久保忠行の娘。享保10年(1725年1月26日卒。
  27. ^ 通称・平一郎。
  28. ^ 安永9年(1780年9月10日卒。墓所・善導寺
  29. ^ 勘太郎。室は小笠原常春の娘。安永5年(1776年7月17日卒)。
  30. ^ 天明6年(1785年10月28日卒。墓所・善導寺。
  31. ^ 根岸五衛門成巴二男。文化14年(1817年3月8日卒。墓所・善導寺。
  32. ^ 稲次郎、三十郎、大蔵。造酒正、飛騨守。
  33. ^ 鳥山大七郎允陳二男。元治元年(1864年4月6日卒。墓所・善導寺。
  34. ^ 天保14年(1843年6月28日卒。墓所・善導寺。


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長沢松平氏

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松平忠輝」の記事における「長沢松平氏」の解説

慶長4年1599年1月家康の七男で同母弟の松千代早世したため、弟の名跡を継ぐ形で長沢松平氏の家督相続し武蔵国深谷1万石を与えられた。ただし『徳川幕府家譜』では慶長初めに長沢松平氏は忠輝が直接継いだとあり(『御九族記』は松平康直死去と同じ文禄2年)、松千代通説では異母弟松平仙千代経歴とされる平岩親吉養子になったとある。松平仙千代は後に御三家筆頭となる徳川義直同母兄であり、いかに親吉が功臣としても養子とするのは不自然であり、庶子第2子である松千代の方が適当と言える慶長3年1598年)、伊達政宗の娘と縁組を行う。慶長7年1602年)に下総国佐倉5万石に加増移封され、元服して上総介忠輝を名乗る慶長8年1603年2月信濃国川中島藩12万石加増移封され、待城(松代城)主となる(佐倉移封前年12月であったため、わずか40日で2度転封となる)。 慶長10年1605年)に上洛して家康将軍として最後に参内し翌日4月11日参内従四位下・右近衛権少将任じられる5月11日には新将軍秀忠名代として、上洛拒否した大坂豊臣秀頼面会した慶長11年1606年11月24日先述のように縁組した政宗長女五郎八姫結婚した慶長13年1608年)、異父姉の婿の花井吉成附家老とされた。 慶長14年1609年9月幼き日の忠輝を養育しこの頃幕府からの附家老であった皆川広照や、山田重辰松平清直古くからの家臣が、忠輝の素行改まらないことを駿府家康訴えた。忠輝側の弁明もあり、家康からは逆に家老不適格であるとされて皆川松平清直改易山田切腹となった慶長15年1610年)、当初井伊直勝代わりに近江国60万石もしくは50万石与える話があったが、閏2月越後福嶋騒動堀忠俊改易されると、その旧領である越後国高田藩福島城主・後述30万石を加封され、川中島14万石併せて合計45万石領した(『恩栄録』)。なお、所領史料によって75万石(『慶長見聞録案紙』『慶長見聞書』)、65万石(『松平系諸集参考』)、55万石(『家盛』『大三川志』)、538千500石(『武徳編年集成』)、45万石(『恩栄録』『続選武家補任』)と一定していない。旧領川中島領は花井吉成松代城となって支配したこの際幕命により松平清直を5千石再度附属させられている。 慶長17年9月には駿府家康面会したが、これは主に江戸参勤していた忠輝としばらく会っていない家康からの要望だった。同年には長年家康麾下大番頭勤めた松平重勝を、忠輝の附家老にした。翌年4月も忠輝は駿府出向き家康面談している。

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