冷遇説とは? わかりやすく解説

冷遇説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 18:34 UTC 版)

松平忠輝」の記事における「冷遇説」の解説

忠輝は次兄結城秀康同じように、父親から生涯通じて嫌われたとする資料は、江戸中期以降史書確認でき、その理由として容貌嫌ったという記録が多い。 『藩翰譜』には「世に伝ふるは介殿(忠輝)生れ給ひし時、徳川殿(家康御覧じけるに色きわめて黒くまなじりさかさまに裂けて恐しげなれば憎ませ給ひて捨てよ仰せあり」、と伝える。つまり、家康生まれたばかりの新生児である忠輝の顔が醜いという理由だけで、捨て子扱いしたとある。同書には慶長3年7歳時に忠輝と面会した家康が、「恐ろしき面魂かな、三郎松平信康)が幼かりし時にふところなかりけり」と語ったとも伝える。 また『野史』の同年記事には、家康が忠輝を見て面貌怪異三郎松平信康)ノ稚顔ニタリと言ったという記述がある。家康は、長男信康面影を忠輝に見いだしてたとある。甥で同じく改易された松平忠直などと同様、忠輝は粗暴な一面があったとも伝えられている。 また所領面については、慶長11年1606年)の川中島12万石太守であった時点で、弟の義直7歳)は甲斐府中25万石、頼宣(5歳)は常陸水戸藩25万石、頼房(4歳)には常陸下妻藩10万石を与えており差があるが、これは庶子と見られる。なお、先述のように同母弟の松千代幼くして長沢松平氏を継ぐ形で武蔵深谷藩与えられていたのに対し同時期の忠輝には特に何も与えられず、松千代夭折によって兄の忠輝がその跡を継ぐという、逆の形になったとある。しかし、これも松千代介さず直接忠輝が長沢松平氏継いだ資料もあり、同時代史料で忠輝が殊更冷遇されたとする記述は無い。

※この「冷遇説」の解説は、「松平忠輝」の解説の一部です。
「冷遇説」を含む「松平忠輝」の記事については、「松平忠輝」の概要を参照ください。

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