鎌倉の権五郎景正(景政)
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「奥州後三年記」の記事における「鎌倉の権五郎景正(景政)」の解説
相模の国の住人鎌倉の権五郎景正といふ者あり。先祖より聞えたかきつはものなり。年わづかに十六歳にして大軍の前にありて命をすてヽたヽかう間に、征矢にて右の目を射させつ。首を射つらぬきてかぶとの鉢付の板に射付られぬ。矢をおりかけて当の矢を射て敵を射とりつ。さてのちしりぞき帰りてかぶとをぬぎて、景正手負にたりとてのけざまにふしぬ。 鎌倉権五郎景政の系図は諸説あってはっきりしない。安田元久は、『陸奥話記』の、藤原景通こそ鎌倉景通だとし、その弟、鎌倉権守景成が平良正の子、致成(ともなり)の養子となって、その子が権五郎景政とするのが最も妥当としている。『尊卑分脈』はこの説をとるが、この養子関係等についてはまだ確認されていない。 藤原景通は美濃国を本拠とした京武者で加賀介となり、そこからその子孫は加藤氏を名乗るようになる。権五郎景政はこのとき16歳。自分の政治的判断で従軍するはずもない。仮に安田の想定通りであれば、京における郎党(同盟軍)の子弟という、京武者コネクションでの動員の可能性が高くなる。 しかし、野口実、元木泰雄両名は、『今昔物語集』巻第二十五第十「依頼信言平貞道切人頭語」に出てくる源頼光の郎党、平貞通(道)(碓井貞光)の孫と推定している。平貞通は、京で源頼光に仕えながら、関東との間を行き来している。 後三年合戦から約20年後の長治年間(1104年 - 1106年)、鎌倉権五郎景政は相模国・鵠沼郷一帯を、先祖伝来の地として、多数の浮浪人を集めて開発を始め、それを伊勢神宮に寄進しようと国衙に申請した。そして、永久5年(1107年)10月23日にその承認を得て、「大庭御厨」を成立させる。「御厨」(みくりや)とは天皇家や伊勢神宮の荘園を意味する。景正は、「供祭上分米」を伊勢神宮に備進する代わりに、子孫に下司職を相伝する権限を手にする。いわゆる寄進系荘園の典型である。 「大庭御厨」は13郷で成立しており、庄域は東に鎌倉郡玉輪庄に接し、面積は久安元年(1145年)当時95町。このことが正確に知られるのは、それから140年後に義家から3代目の、源義朝(頼朝の父)に攻めこまれるという「大庭御厨の濫妨」事件があり、そのときの伊勢大神宮司の訴状に対する官宣旨案(天養記)が公家の日記の背文書として発見されたからである。 このことは、鎌倉権五郎景政が、義家の郎党としてこの合戦に参加していたからといって、景政やその兄弟一族である鎌倉党が、河内源氏の譜代の郎党とはいえないことを示している。当時の一家をなすもの同士の結合が極めて緩やかであり、親兄弟がそれぞれ別の主人?に名簿(みょうぶ)を差し出すことはごく普通である。これは義家の孫、為義の代においても変わらない。
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