鎌倉の権五郎景正とは? わかりやすく解説

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鎌倉の権五郎景正(景政)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 01:25 UTC 版)

奥州後三年記」の記事における「鎌倉の権五郎景正(景政)」の解説

相模の国住人鎌倉の権五郎景正といふ者あり。先祖より聞えたかきつはものなり。年わづかに十六歳にして大軍前にありて命をすてヽたヽかう間に、征矢にて右の目を射させつ。首を射つらぬきてかぶとの鉢付の板に射付られぬ。矢をおりかけ当の矢を射て敵を射とりつ。さてのちしりぞき帰りてかぶとをぬぎて、景正手負にたりとてのけざまにふしぬ。 鎌倉権五郎景政系図諸説あってはきりしない安田元久は、『陸奥話記』の、藤原景通こそ鎌倉景通だとし、その弟、鎌倉権守景成が平良正の子、致成(ともなり)の養子となってその子権五郎景政とするのが最も妥当としている。『尊卑分脈』はこの説をとるが、この養子関係等についてはまだ確認されていない藤原景通美濃国本拠とした京武者加賀介となり、そこからその子孫加藤氏名乗るうになる権五郎景政はこのとき16歳自分政治的判断従軍するはずもない。仮に安田想定通りであれば、京における郎党同盟軍の子弟という、京武者コネクションでの動員可能性高くなる。 しかし、野口実元木泰雄両名は、『今昔物語集』巻第二十五第十依頼信言平貞道切人頭語」に出てくる源頼光郎党、平貞通(道)(碓井貞光)の孫と推定している。平貞通は、京で源頼光仕えながら、関東との間を行き来している。 後三年合戦から約20年後の長治年間1104年 - 1106年)、鎌倉権五郎景政相模国鵠沼一帯を、先祖伝来の地として、多数浮浪人集めて開発始め、それを伊勢神宮寄進しようと国衙申請した。そして、永久5年1107年10月23日にその承認得て、「大庭御厨」を成立させる。「御厨」(みくりや)とは天皇家伊勢神宮荘園意味する。景正は、「供祭上分米」を伊勢神宮備進する代わりに子孫下司職相伝する権限手にするいわゆる寄進荘園典型である。 「大庭御厨」は13郷で成立しており、庄域は東に鎌倉郡玉輪庄に接し面積久安元年1145年当時95町。このことが正確に知られるのは、それから140年後に義家から3代目の、源義朝頼朝の父)に攻めこまれるという「大庭御厨濫妨事件があり、そのとき伊勢大神宮司の訴状対す官宣旨案(天養記)が公家日記の背文書として発見されたからである。 このことは、鎌倉権五郎景政が、義家郎党としてこの合戦参加していたからといって景政やその兄弟一族である鎌倉党が、河内源氏譜代郎党とはいえないことを示している。当時一家をなすもの同士結合極めて緩やかであり、親兄弟それぞれ別の主人?に名簿みょうぶ)を差し出すことはごく普通である。これは義家の孫、為義の代においても変わらない

※この「鎌倉の権五郎景正(景政)」の解説は、「奥州後三年記」の解説の一部です。
「鎌倉の権五郎景正(景政)」を含む「奥州後三年記」の記事については、「奥州後三年記」の概要を参照ください。

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