覚盛らによる中興とは? わかりやすく解説

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覚盛らによる中興

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 06:19 UTC 版)

唐招提寺」の記事における「覚盛らによる中興」の解説

平安時代中期以後戒律護持廃れたため、唐招提寺衰亡した。とはいえ保延6年1140年)にはまだ金堂講堂宝蔵御影堂阿弥陀院などは残存していた。 鎌倉時代になると、釈迦信仰舎利釈迦遺骨信仰戒律復興気運高まりともなって鑑真彼のもたらした舎利対す信仰復興した。まず中川寺の実範来訪し、『授戒式』を撰述した。さらに、笠置寺解脱貞慶建仁3年1203年)、唐招提寺にて釈迦念仏会(ねんぶつえ)を始めた唐招提寺中興の祖とされるのは、四条天皇菩薩戒授けたこともある律宗高僧覚盛である。覚盛寛元元年1243年)に舎利会創設鑑真遺徳顕彰など行い、さらに翌2年1244年)に正式に当寺入寺し、再興した寺観本格的な復旧整備行ったのは、覚盛法灯継いだ証玄で、諸伽藍修理仏像造立などに尽力し戒壇創設行った鎌倉時代末期に入ると、祖父亀山天皇禅律振興政策継承した後醍醐天皇からの崇敬受けた元徳2年1330年8月9日には、後醍醐帝覚盛対し、「大悲菩薩」の諡号贈った(『僧官補任』)。仏教美術研究者内田啓一によれば後醍醐帝腹心護持僧祈祷天皇守護する僧)を務めた文観弘真真言律宗出身で、唐招提寺中興9世長老覚恵文観から付法伝授)を受けていたため、この諡号追贈文観推挙よるものではないかという。なお、軍記物語『太平記』1370年ごろ完成)には、後醍醐天皇鎌倉幕府倒幕運動文観と共に加わった高僧として「教円」という人物登場するが、これは唐招提寺中興10長老慶円モデルであるとされている(ただし史実として慶円倒幕加わったかは不明である)。

※この「覚盛らによる中興」の解説は、「唐招提寺」の解説の一部です。
「覚盛らによる中興」を含む「唐招提寺」の記事については、「唐招提寺」の概要を参照ください。

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