覚盛らによる中興
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平安時代中期以後、戒律護持が廃れたため、唐招提寺は衰亡した。とはいえ、保延6年(1140年)にはまだ金堂・講堂・宝蔵・御影堂・阿弥陀院などは残存していた。 鎌倉時代になると、釈迦信仰・舎利(釈迦の遺骨)信仰や戒律復興の気運の高まりにともなって、鑑真と彼のもたらした舎利に対する信仰が復興した。まず中川寺の実範が来訪し、『授戒式』を撰述した。さらに、笠置寺の解脱房貞慶が建仁3年(1203年)、唐招提寺にて釈迦念仏会(ねんぶつえ)を始めた。 唐招提寺中興の祖とされるのは、四条天皇に菩薩戒を授けたこともある律宗高僧の覚盛である。覚盛は寛元元年(1243年)に舎利会の創設や鑑真の遺徳顕彰などを行い、さらに翌2年(1244年)に正式に当寺に入寺し、再興した。寺観の本格的な復旧整備を行ったのは、覚盛の法灯を継いだ証玄で、諸伽藍の修理や仏像の造立などに尽力し、戒壇の創設も行った。 鎌倉時代末期に入ると、祖父の亀山天皇の禅律振興政策を継承した後醍醐天皇からの崇敬を受けた。元徳2年(1330年)8月9日には、後醍醐帝は覚盛に対し、「大悲菩薩」の諡号を贈った(『僧官補任』)。仏教美術研究者の内田啓一によれば、後醍醐帝の腹心で護持僧(祈祷で天皇を守護する僧)を務めた文観房弘真は真言律宗出身で、唐招提寺中興9世長老の覚恵も文観から付法(伝授)を受けていたため、この諡号追贈は文観の推挙によるものではないかという。なお、軍記物語『太平記』(1370年ごろ完成)には、後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕運動に文観と共に加わった高僧として「教円」という人物が登場するが、これは唐招提寺中興10世長老の慶円がモデルであるとされている(ただし史実として慶円が倒幕に加わったかは不明である)。
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